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船坂住民数珠つなぎ 高嶺邦子さん

20150214船新記事(数珠つなぎ高嶺邦子さん)画像データ 加工01

船坂から山口町に向かう道沿い右手の下田近辺で目を引くのが、緑地に白文字の「タカネ鉄工所」。今回はそこの奥様の高嶺邦子さんのご登場です。

―本当に素朴な質問で本当に申し訳ないんですが、姓が”高嶺(タカミネ)”なのに、鉄工所の名前はなぜ”タカネ”なんでしょう?

高)高嶺が”高嶺(タカネ)の花”と同じ文字なのと呼びやすいからなのか、仕事先からは”タカネ”さんと呼ばれてましたし、「嶺」という字面が少し堅い印象なので、いっそカタカナにして「タカネ鉄工所」と名付けたんですよ。

―ちっぽけな疑問が解決してスッキリしました(笑)。お生まれはどちらですか?

高)大阪の岸和田ですが、3歳の時に故郷の沖縄にうつって子ども時代を過ごしました。就職時期になって、沖縄の外で働きたかったんですが祖母が厳しくて大ゲンカ。結局「3年たったら絶対戻くること」の条件がでて、大阪で働くことになりました。3年後、約束通りに沖縄に帰ってきたら、祖母もだいぶ優しくなって、今度は「何かあったら戻ってくること」と条件もゆるくなったんです(笑)。それで今度は宝塚で暮らすことになって宝塚で働きはじめました。

-船坂に住むきっかけは?

高)近所に住んでいた主人と知り合って結婚したんですが、鉄工所の場所を探してたんですね。すると仕事先の関係で山口町の大田工務店から古藪さんを紹介いただいて、敷地をお借りすることができたんです。船坂にうつったのは昭和50、51年頃だったと思います。

-宝塚から船坂だと、生活面で不便を感じたことはなかったですか?

高)当時、水道がきちんと整備されてなくて、普通に生活できないぐらいよく断水して困りました。しかたないので生活用の水を風呂おけに貯めてたので、井戸を掘って水が使えるようになるまでは、お風呂に入る時は有馬まで行ってました(苦笑)。私も鉄工所の仕事をしていて外にでることが多かったので、買物は船坂に戻るまでに済ませるようしたから、そんなに不便は感じませんでした。不便は不便だけど、それなりに何とかなるというか…。でも、とにかく仕事が忙しくて、子供たち3人(男2人・女1人)の世話をちゃんと見てあげられなかったのは申し訳なく思ってます。

-船坂で楽しい思い出はありますか?

高)花見の季節になるといつもゴルフ場近くの桜の下で、従業員たちと花見をしていました。あと、主人が元気な時は家族・従業員・従業員家族と共に、年に1回は浜坂等に海水浴に行っていたのもいい思い出です。あと、船坂はとても寒いですけど、近所づきあいがとても暖かくてすごく助かっています。

-今は主に何をして過ごされてますか?

高)今はお休みしてるけど、陶芸をしていたのでそれをまた始められればいいなと思ってます。あと、娘が宝塚に住んでるんですが、孫の世話でしょっちゅう呼ばれるんですよ。昔、子供のめんどうがあまりみられなかった分を取り戻す勢いでめんどうをみているので、”第二の子育て”を今は満喫してるのかもしれません(笑)。

(インタビュアー 中西 学)


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