船坂の歴史

※2016年4月時点
1 船坂の地名
 ・鎌倉初期(1192年)、有馬温泉を復興した仁西上人が、温泉の湯舟の板をこの地で
 求めたことから、舟坂(船坂)という地名が始まったといわれているが、これはあくま
 で伝説であって、船坂という地名が文献に出てくるのはそれより以降の室町時代である。
 (山口村誌)
   ※阪急バス停には、今も「舟坂」「舟坂橋」「舟坂東」と表示されています。
2 船坂の交通
 1)船坂は古代から有馬への入湯路
  ・有馬温泉は、西暦600年頃、蘇我馬子の指示により幡多郷(現神戸市北区八多町
   周辺)の秦氏によって開発されたようである。631年の舒天皇行幸のとき、日本
   書紀の記述にはないが当時の大臣だった蘇我蝦夷が案内したのではなかろうか。
   (米田寿著「兵庫県謎解き散歩」)
  ・七世紀の初め、中大兄皇子は藤原鎌足とはかり蘇我氏を亡ぼし、孝徳天皇大化2年
   (646年)に発せられた改新の詔により大化の改新が行われた。大化3年(64
   7年)10月に、孝徳天皇が左右大臣群郷大夫とともに有馬温泉に行幸したと日本
   書紀にあり、公智神社(山口町)に行宮を造営し滞在した。その際も船坂を経由し
   たであろう。
  ・この頃、船坂は有馬温泉への道筋になっていた。当時は、大和難波から有馬へ行く
   場合、海路・ 陸路とも西宮の津門を経て武庫川の西岸~蔵人~伊孑志を通り、生瀬
   から太多田川の渓谷~船坂~金仙寺~有馬と通っていたようで、さらにこの道は山
   陰方面まで続いていたようである。
   (山口村誌)
 2)江戸時代の船坂の街道筋
  ・摂津国絵図(慶長10年(1605年)年9月)によって、その頃の山口を中心と
   した交通の模様を図に示すと第9図のとおりで、生瀬村から船坂~金仙寺~山口に
   通ずる道は二重になっていて、しかも一里塚と思われる印がある。江戸時代の初め
   頃までは、物資の移動がそれほどでなく、人の往来が主であったころはこの街道が
   往還であった。
   (山口村誌)
  ・一里塚とは、幕府が街道整 備の際、一里(約4km)ごとに設けた目印で、道路の
   両側5間(約10m)四方に土を盛りあげた塚をつくり、榎、松などを植え、里程が
   わかるように、また旅人の憩いの場にしたと言われている。船坂の一里塚は坂口家
   の敷地内に設けられていたといわれている。
   (山口町史)
  ・この街道(生瀬街道)は、その後時代の経過とともに、三田方面と阪神方面の物資
   の交流が活発になるにしたがって利用度は減退し、名塩道、青野道の利用が多くな
   ってきた。
   (西宮市史第2巻より)
  ・元和・寛永の頃(1620年頃)、徳川氏は有馬道を往還と定めており、慶安3年
   (1650年)頃以降の資料は、生瀬~船坂~有馬を有馬道と記している。
   (山口村誌)
 3)江戸時代の船坂間道
  ・船坂から鷲林寺に出て西宮へ通じている間道で、文政元年(1818年)船坂村が
   この道筋を七、八丁にわたり、道幅を2間幅に広げたのを生瀬駅側が見つけ訴えた。
   その結果、船坂村と西宮との領境、そのほか1ヶ所に木戸を設けて村人だけの通路
   とした。このような駅所の特権を持つ宿駅側と、それを打破しようとする在郷側と
   の対立は明治初年まで続いている。
   (山口村誌)
 4)明治時代の船坂の街道
  ・生瀬~船坂~有馬に通ずる道を俗に生瀬街道といっていた。明治20(1887)
   ~21(1888年)年に改修されて県道に移管された。その後、明治31年5月
   に生瀬駅に阪鶴鉄道(現福知山線)が開通して、ますます主要な街道となり、人力
   車・籠などが使われ、船坂は旅人たちの休憩所宿所とされた。当時の旅篭跡の家が
   今も船坂に現存する。
   (船坂新聞第18号)
  ・大正4年に三田~有馬間に鉄道が開通するようになってからは、自然にこの街道の
   利用者も少なくなった。
   (山口村誌)
 5)阪急バスの開通
  ・大正13年(1924年)9月から宝塚~山口間のバスが営業開始し、翌年9月に
   有馬まで延長されたが、太多田橋~船坂~有馬のバスは、昭和14年(1938年)
   に開通した。
   (山口村誌)
 6)県道:大沢-西宮線と西宮北有料道路
  ・昭和47年、船坂から盤滝を峠越えで結ぶ二車線完全舗装道路が開通した。
  ・平成3年3月25日 西宮北有料道路(盤滝トンネル)が開通した。
3 船坂の所属
 1)江戸幕府の直轄領
  ・元和6年(1620年)12月8日、有馬郡領主有馬玄蕃豊氏は九州久留米に封印
   され、船坂村は幕府の直轄領となり、明治維新まで続いた。
   (山口村誌)
 2)江戸時代の検地
  ・延宝7年(1679年)8月7日有馬郡船坂村検地帳には百姓93名の持高などが
   記載されており、船坂村全体で持高310石、2069畝である。
   (山口村誌)
 3)廃藩置県直後の船坂村
  ・明治4年に廃藩置県が行われ、明治5年8月に船坂は有馬郡19区に改編整理された。
   ※有馬郡19区について(山口村誌)
    役所所在地:船坂村
    所属町村名:船坂村、名来村、下山口村、上山口村、中野村、生瀬村、名塩村、
          湯山町、塩田村、平田村、生野村
    区長:平井佐右衛門(船坂村)
 4)下山口組(山口村)加入
  ・明治16年7月政府が連合町村制をしいたため、それまで単独性をとっていた船坂村
   も下山口組に加入した。明治22年4月に町村制となり下山口組は山口村となった。
   (山口村誌)
 5)西宮市に合併
  ・昭和22年に神戸市に合併を申し入れだか、神戸市はなぜか確な態度を示さなかった。
   その後、昭和26年3月村議会で西宮市との合併を議し、同年4月1日に西宮市に合
   併した。
   (山口村誌)
4 船坂の人口
  ・明治17年:86戸389人
   明治30年:88戸461人
   明治40年:83戸434人
   大正 5年:88戸534人
   大正15年:93戸573人
   昭和 5年:92戸594人
   昭和15年:88戸640人
   昭和25年:121戸638人
   (山口村誌)
  ・最近の船坂の人口
   平成13年246世帯774人
   平成14年256世帯769人
   平成15年253世帯756人
   平成16年250世帯739人
   平成17年218世帯781人
   平成18年220世帯767人
   平成19年215世帯758人
   平成20年205世帯744人
   平成21年215世帯734人
   平成22年217世帯732人
   平成23年197世帯700人
   (西宮市の推計人口。平成17年・22年は国勢調査)
   ※この推計人口には、社会福祉法人(一羊園、善照学園)在籍者約150人も含ま
    れているので、地 域住民は各年150人を引いた人口と推察される。
    例えば平成23年の地域住民は推計550人。
5 船坂小学校の変遷
 明治6年2月1日:善照寺を校舎として開校
  船坂小学校沿革誌に記載されている開校年月日。「兵庫県史」及び「西宮市史」に
  よると、船本(船坂)小学校は明治5年12月5日に設立認可されている。
 明治11年6月:1回目の移転
  2016年4月時点、現在の船坂JA(農協)の南側に隣接した約200坪の土地で、
  上段に校舎、下段に運動場がつくられた。
 明治33年10月:2回目の移転
  2016年4月時点、現在地の運動場に校舎を新築した。
 明治44年4月:運動場を拡張。
 大正 4年5月:教員住宅(校長の住宅)新築
 大正12年2月:運動場を50坪拡張
 大正13年4月:幼児教育部を併設
 昭和22年4月公立幼稚園に認可
 大正13年9月:校舎増築
  2016年4月時点、現ランチルーム棟。昭和31年の曳家工事で現在地へ移動。
 昭和15年2月11日:船坂婦人会が二宮尊徳銅像を旧校門前に建立
  昭和17年金属回収のため供出。昭和20年3月17日に現在(2016年4月
  時点)の石像が寄贈される。
 昭和30年 8月:校地北側を地区住民延べ600人の奉仕で整備された所に106坪の
          木造校舎を建設
 昭和31年 6月:大正13年建築の木造校舎を西に移動
 昭和36年11月:善照学園が創立し、船坂小学校に通学開始。
 昭和42年 7月:教員住宅、幼稚園園舎跡地にプール完成
 昭和43年   :木造校舎の2階部分を増築。全学年単式学級となる。
 昭和48年 4月:創立100周年
 昭和48年度の児童数は84名。
 昭和50年 3月:鉄骨2階建て校舎増築。
 昭和59年 3月:体育館完成。
 平成15年 4月:複式学級再開。全校児童数66名。
  児童数は、H17年度58名、H18年度41名。H21年度40名。
 平成22年3月31日:閉校。
6 神社仏閣
 1)山王神社(山口村誌)
  ・“承応2年(1653年)8月村中ノ人民之ヲ創建ス村社“(船坂村地誌)とあるが、
   それより以前の天正年間、播州三木の城主別所長治の宗敬が篤くその祈所であった
   といわれる。天正初め(1582 年)頃、織田信長が羽柴秀吉に命じて播州三木城
   を攻略させた時、赤松の家臣小野三郎は西尾の砦を守っていたが、一村ことごとく
   兵馬に蹂躙され当社(古文。旧記、宝物)も又、兵火の難に遭ったと伝えられている。
  ・かつて、年中行事の秋祭りには、馬場先において盛大な馬遊びの行事があったと言わ
   れている。古雅にして勇壮をきわめ、遠近よりの観客で非常ににぎかであったが、
   現在は中絶している。この神社の氏子は、祭神:大己貴命の神威をおそれ、古来藁を
   打つのに槌(つち)を使わず、必ず杵(きね)を使用したとある。
  ・歴代社掌は記録がなく判らないが、現在は、有馬町温泉稲荷神社が兼務している
 2)国玉稲荷神社
  ・明治34年(1901年)、農耕・殖産興業の神である稲荷大社(国玉大名神)を
   伏見稲荷大社より勧請し、現在地で奉祀する。平成13年に寒行の100年祭を行う。
   平成16年時点で講員は12名。
   (山口町史)
 3)秋葉神社
  ・100年以上昔、船坂の“西之町”が大火に見舞われた時、当時“西之町”に住んでい
   た27軒の住民が発起して造営したと伝えられている。火伏せの神、火消しの神と
   して「秋葉三尺坊大権現御祈祷寶牘 曹洞宗可睡斎王」と書かれた札が祀られている。
   現在も、“西之町”の人々によって毎月掃除が行われ神饌が供えられている。
   (船坂新聞第6号)
 4)善照寺
  ・寛正(1461年)2年2月10日、釈善想によって開基したと伝えられている。
   真宗大谷派(東本願寺末)で、阿弥陀如来を本尊とする。本尊(銅像)は黄金仏とも
   言われ、「浮足の如来さん」としても知られている。
  ・当寺は、はじめ浄土宗であったが、真宗の中興蓮如上人来錫のおり上人に帰依する者
   が多く、真宗になったと同寺寺記に伝えられている。
   (山口村誌)
   ※阿弥陀如来伝説(抄)
    ある夜、善想の夢枕に黄金色の如来が立ち「今、播州上久米村(現加東市久米)の
    大江ケ池近くに居る。迎えにきてほしい。」と言って消えた。善想は旅支度をして
    播州へ向かい、途中、淡河(現神戸市北区)まで来たとき如来を背負った旅僧に出
    会った。旅僧は上久米村の者で「あなたと同じ夢を見たので、この如来を善照寺へ
    背負っていく途中だ」と言う。
    善想は、そこから如来を背負って船坂へ戻り善照寺に安置したという。 船坂へ戻る
    途中一服したとき、如来が「まだ一里もあるのか。遠。」と言ったという。このこ
    とから名づけられたのが船坂北端にある「遠矢地蔵」で、今も船坂の人たちで祀ら
    れている。

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