―四郎さんは、春治さんのお世話をよくしておられますが?
上)春治は叔父(母の弟)にあたるねん。怪我して兄(宏之)と協力しながら世話してる。
―四郎さんの小学校の思い出は?
上)この建物(ランチルーム)が運動場の方にあって瓦屋根やって、そこで勉強した。プールのとこに先生の住宅と幼稚園があった。同級生も何人かおったんやけど、今、船坂に残っとるのはワシと亥角洋子さんと与那嶺(旧姓桃原)キヨ子さんの3人だけや。
―四郎さんは、ずっと船坂ですか?
上)そや。生まれてから70年、ずっと船坂や。勤めも高原ゴルフに40年勤めてたんで外へ出てへん。街はきらいや。曲り角があっちこっちにあるのでややこしゅうていやや。勤め辞めてからも草刈なんかしてて外へはあんまり行かへん。船坂川の西側に残ってるビエンナーレ作品の回りも刈ってるんや。
―四郎さんのお家の辺りは上中さんが固まってますね。
上)4人兄弟の内、長男(勇)と三男(宏之)と四男(四郎)が固まって住んでるねん。妻のけい子とは昭和48年に結婚した。苦労してるからワシにはようしてくれたで。息子は簡保、娘は植物園で働いとるんやけど、まだ一人もんや。早よ孫の顔みたいんやけどな。
―船坂のことで何かありませんか。
上)船坂小学校がのうなったんは、昔、皆が先の見通しをせんかったせいやと思う。こうなったんもしゃあないな。船坂新聞はええ新聞や。わしが載せてもらえるなんて夢にも思わんかった。