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船坂住民数珠つなぎ 上中宏之さん

今回は1班の上中宏之さんから話をお聞きしました。落ち着いて穏やかに話される姿に、自分のガサツなインタビューを顧みて思わず恥ずかしくなってしまいました。反省・・・(;^_^。

―宏之さんはおいくつになられたんですか。
上)今年の誕生日を迎えると78歳になります。生まれも育ちも船坂で、船坂以外のことはよう判りませんのです(笑)。

―船坂小学校には戦後の入学になりますね。
上)そうですね。私たちの年代は確かまだ西宮市と合併する前でした。1学年上の人数が少なくて最初から複式学級みたいなもんでした。だから1学年上のあんたのお養父さんと裏山に入ったり走りまわったりして、よく遊んでもらいましたわ(笑)。

―そうだったんですね(汗)。
上)山口中学校には最初は歩いて通学してましたけど、途中からは自転車で行くようになりました。野球やバレー等のクラブも既にありましたね。当時は確か陶芸クラブみたいなのもあって、私はそこで粘土をこねたりしてたように記憶しています。
そのころ西宮高原ゴルフ場の開発が徐々に進められていて、中学卒業した後、私はそこで測量・造成工事の仕事を行うことになりました。

―開発は大変だったんじゃないですか?
上)当時は今ほど建設機材が進んでいるわけではないので、造成工事にあたっては発破(ダイナマイト)がよく使われてましたよ。専門家じゃないので、私が直接仕掛けるわけじゃなかったですけど、隔離した専用の発破小屋も作られてました。だから船坂でも発破の音はよく聞こえてたりしてたと思うんですけどね。昭和30年代半ばにゴルフ場が仮オープンしたんですけど、私はコースや芝生を管理する仕事でそのままゴルフ場で仕事をしないかと話をいただき、そのまま定年までゴルフ場で勤めることになったんです。定年後もアルバイトで6,7年は勤めていたので、たぶん47,8年はゴルフ場のお世話になったはずですわ。

―そうすると、ほとんど船坂で人生を過ごされてこられたんですね。
上)そうやね(笑)。今はのんびりと生活をさせてもらっていますが、見合い結婚してからも、子ども2人が生まれてからも、ずう~っと船坂暮らしです。自分は男兄弟4人でずっと男に囲まれて暮らしてきたのに、今は妻と娘2人の女ばかりに囲まれた生活です。男1人だけなんで、そのせいか毎日よう叱られていますわ(苦笑)。

(インタビュアー:中西 学)


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