船坂住民数珠つなぎ  田村一朗さん

現在、10隣保の隣保長をされている田村一朗さんから、今回お話をお聞きしました。もうすぐ傘寿を迎えられる田村さんの肌はつやつや。シルバー人材センターで覚えられたという竹炭の効果なのかも?(^_^)

―お生まれはどちらですか?
田)大阪市西区の阿波堀通りです。戦時中だったので縁故疎開で小学1年生の時に宝塚に移りました。大阪大空襲で家が焼け、親も大阪をでることになったので、宝塚からすぐに蛍池、甲子園口と転々としました。蛍池時代に宝塚からの下校時、電車に一人で乗っていると空襲警報が鳴って、池田駅の防空壕でやり過ごしたまではよかったんですが、そこから電車が動かない(苦笑)。まだ7歳で帰り道も全然わからなかったんですが、そばにいたおばさんがついてくれて、池田から蛍池まで歩いたことを覚えています。終戦の玉音放送を聞いたのは甲子園口でしたね。

―本当に大変な時代だったんですね……。
田)そこから仁川に引っ越して、県立西宮高校に入学。一時期、地方に転校しましたが、卒業後は仁川に戻って大阪の繊維問屋に就職しました。

―働き始めてからの生活はどんなでしたか?
田)母は既に亡くなっていて父も病気、学生の弟妹もいたので姉と私はがむしゃらに働くばかりでした。とても遊ぶ余裕はなかったですね(苦笑)。21歳のころに西宮市が中途採用募集してることを知って応募したところ、採用されました。応募の理由は大阪より西宮のほうが家が近くて、家族の面倒見るのに都合がよかったから(笑)。市職員になってから西宮の勤労者山岳会という団体に入って、山登りを楽しむ余裕もできたように思います。

―船坂に住むきっかけは何だったんですか?
田)病院勤務していた妻と結婚して仁川から阪神甲子園、浜甲子園団地と引っ越しましたが、そんな時、市の生協で船坂の物件が紹介されていたんです。まだ子どもが小さかったんで、子どもの手が離れるか退職後の住まいとして考えたんです。昭和61年に家を買い、退職して船坂に住もうと思った平成7年、大震災で家の瓦のほとんどが落ちてしまって補修が必要になり、さらに体調を崩し入退院の繰り返し等で、そこからなんやかんや時が過ぎてしまって平成13年にやっと夫婦2人で船坂に引っ越してきました(苦笑)。

―長い道のりだったんですね(笑)。船坂に来られてからの生活はどうですか?
田)引っ越してきたとき、同じ市職員の知人が偶然にもすぐそばに住んでいたので驚きました(笑)。妻は船坂に来てからも他の病院で働いていたし、私も三田のシルバー人材センターで活動していました。千丈寺湖のパトロール、その他いろいろ経験しましたし、そこで竹炭作りも覚えたんです。

―現在、隣保長をされていますが。
田)とうとう引き受けざるを得なくなりました(笑)。任期は1期2年の予定ですが、大勢の人たちに助けられながら、がんばって努めたいと思います。

(インタビュアー:中西 学)

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