船坂住民数珠つなぎ 藤井達矢さん

今回は船坂ビエンナーレの立上げから関与され、今も週3日以上は10隣保内の家を仕事場利用されている藤井達矢さんのご登場。「子どもは落書き自由」というワークショップ用の軽トラに乗って来られ、驚きから始まったインタビューでしたw(゚o゚*)wワァオ!!

-ご出身はどちらですか? 小さいころはどんなお子さん?
藤)宝塚市の仁川団地に生まれ、小5で生瀬に引っ越しました。今も実家は生瀬です。塩瀬中学2年時に父の転勤で千葉に転居した後は、茨城の筑波大学・大学院修了まで関東で過ごしました。小さいころは大人しくて真面目、球技をはじめスポーツ嫌いという全く目立たない子どもでした(苦笑)。でも図画工作が得意で、その授業になるとみんなが一目おいてくれてちょっとしたヒーローになれたんですね。それでこれが自分の居場所なんだと思うようになり、美術の世界に進みました。

-就職はそのまま東京方面で?
藤)いえ。関東平野の広大さや都会の雑踏に違和感を感じていて、そこでの就職は考えませんでした。その点、京阪神間では都会と田舎の程よい距離感があって、生瀬の実家に戻るべく就活し、まずは武庫川女子大学の非常勤講師として勤めることになりました。今は船坂から車で15分ほどの逆瀬川に住んでいます。

-船坂ビエンナーレが始まったきっかけは?
藤)大学の美術教員になって教育・研究・その他様々な業務に追われる日々が続き、自身を見失うことも。そこで、立ち位置をしっかり見つめなおすためにも大学を1年間休み、ドイツに留学させていただきました。国外から客観的に自分自身そして日本、故郷を見つめる機会に恵まれ、人と人との関係で生まれて形造られた“社会”に、“芸術(アート)”は関わることが出来るか、どのように関われば“社会”に貢献できるのかを考えていました。そんな時インターネットで船坂新聞の活動や船小廃校の話などを知りました。同じ西宮北部でもあり直面する問題を切実に捉えた私は、「アートでまちおこし」の事例を示しつつ「何かお手伝いしたい」という旨のメールを船坂新聞編集部に送ったのがきっかけです。

-船坂ビエンナーレのこれまでの活動をどう考えていますか?
藤)“芸術(アート)”そのものでまちおこしは出来ません。“アート”はまちおこしの主人公である居住者たちの間の連携のきっかけだったり、有意義な語らいの“場”を興す手段だと思っています。“アート”が居住者の“社会”に深く関わることになるので、イベント実施にあたってはコミュニケーションがとても重要です。ビエンナーレは「とりあえずやってみよう!」という推進委員会と賛同した一部の居住者の情熱で、プレオープンから第4回まで続いてきました。このビエンナーレ活動が船坂社会に与えた正負の影響はしっかり把握しないと勿体ないと思います。私個人としては、数年前からやっと自分のペースで活動できるようになってきたので、今後は船坂にアートを持ち込んでしまった責任者として、船坂の応援活動を覚悟を持って続けていくつもりです。職業柄やっぱりアートを基調にした応援になりますけど(笑)。

(インタビュアー:中西 学)

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