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船坂住民数珠つなぎ 中西昭子さん

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今回は4班の中西昭子さんのご登場。インタビュアーの親戚ですが、繋がりを遡るのが大変で関係性は実はよく判ってません(^_^;)

昭)船坂は父、光雄のふるさと。父は兵庫県の職員で土木関係の仕事をしていました。宍粟郡に住んで引原ダムを建設している時に私が生まれました。母がお産のために来ていた船坂の実家で、私は親戚の産婆さんに取り上げられたらしいです。

―じゃあ、船坂地域の中で生まれた正真正銘の”船坂っ子”ですね(笑)

昭)船坂産ですが、宍粟郡に戻ってからは父の転勤で丹波・加西郡・加東郡と、転々しましたね(苦笑)。お盆とお正月には毎年、電車・バスで船坂に帰省してました。当時の船坂はとっても雪が多くて、妹と雪だるまを作って遊んだ記憶があります。

―実際に船坂に住みはじめたのは?

昭)高校入学の時からです。バスの便が悪くて毎日遅刻寸前(笑)。大学卒業後は、宝塚市内の小学校の先生になりました。当時の生活圏が完全に宝塚だったんで、地元の西宮市でなく宝塚市の先生になる事は、自分の中では全く自然なことでした。

―小学校の先生って大変でしょうし、1年目は特にそうじゃなかったですか?

昭)最初の勤務校は良元小学校でした。歳の近い先輩の先生方が多く、その先輩方からいろいろ教えていただいて教師の基礎を身につけることが出来たと思っています。若いからガムシャラで、授業が思い通りにいかないこともあったけど、助けられたこともすごく多くて…。人との出会いですごく幸運だったし、教員生活の中で新任時代の仕事への取組み方・時間の過ごし方がすごく大事なんだということを学びました。

―長い教員生活のなかで、時代の変化を感じたことは?

昭)音楽の教科書にニューミュージックの曲が載ったり、円周率が3.14から3になってまた戻ったり、給食時間にモーニング娘のDVDが流れたりと、ふとした場面で変化を実感したことがありました。保護者との懇談中に、携帯電話が鳴ると保護者はまず、「先生、ちょっとすいません」と言います。昔はすぐに携帯電話を切って私との懇談に戻るんですが、ある時、携帯電話を取ってかかってきた相手と話し出したんです。その時、世間の風潮が時代とともに変わってくるのを実感しました。教員として今まで築いてきた”教師の基礎”をもとに、”変わっていくもの”と”変わってはいけないもの”をしっかりと見極め、次代を担う子どもたちに伝えていくことが大切であり、必要だと思っています。

―お子さんの通学の関係で中山に住まれてた時期もありましたが、お子さんは今、どちらにお住まいですか?

昭)結婚して今は神奈川県の厚木に住んでます。10月には孫も生まれました。職業柄、息子が船坂に住むのは難しいですが、年に1度は必ず帰ってきます。船坂は自分の”ふる里”と思ってくれているようです。私が職場から家に戻るまでに2回、”風”が変わるんですね。1回目は生瀬から曲がったところで、2回目は蓬莱峡で。”風”が変わるたびに、公人から素の私人に戻っていく・リセットされていくのを感じます。そんな船坂はもちろん私にとっても大好きで大事な”ふる里”です。


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