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船坂住民数珠つなぎ 寺元弘(ひろむ)さん

 今回は、船坂自治会の副会長を今年度から務められている2隣保の寺元弘(ひろむ)さんがご登場。寺元さんのお顔を知ったのは恥ずかしながら今年から(^_^;。ダンディーな雰囲気の方で、物静かな感じでインタビューが始まりました。

―自治会副会長のお役目、お疲れ様です。
寺)単身赴任で東京に住んでいたんですが、65歳で退職したので船坂に戻りました。「帰ってきたんやったら、何かせなあかんで」と、周りの声があって…(苦笑)。最初は山王神社の総代についたんですが、今年から副会長の大役も務めることになりました。

―生まれ育ちが船坂で、小さい頃はどんなお子さんでしたか?
寺)生まれてから44歳までは船坂でしたね。船保・船小・山中というお決まりのルートです(笑)。比較的おとなしかった子どもでしたが、TVゲームなどなかった時代なので、山遊びに川遊びや野球等々と外でばかり遊んでいました。私たちの学年は人数が18人と多かったんですが、直近の上下学年の人数が少なかったので、4年まではずっと複式学級、5年6年だけ単独学級でした。

―中学校には皆で通学してたんですか?
寺)いや、男子は自転車、女子はバスと別れてましたね。金仙寺ダムがまだ工事途中で今の道路でなく旧道の勾配がきつい、自転車でもしんどい道でしたから。バスも有馬経由で乗換えだったので結構時間がかかってたと思います。船坂の人数も多かったからか中学校で特に気おくれはしませんでした。ブラスバンド部でドラムをしてましたが、県大会で優勝など、結構強かった時代でした。

―高校はどちらに?
寺)高校卒業後は就職と考えていたので、技術を身に着けたくて武庫工業高校の工業化学科に進学しました。ただ、化学が本当に面白くなくて…(苦笑)。結局、卒業後に経理の専門学校に1年通って、その後は経理職で大阪チタニウムという会社に就職。最初はバス通勤でしたけど、大量残業が当たり前の時代でしたから、1年後には自動車通勤にしました。でないと帰れません(笑)。

―大変な時代でしたよね。
寺)ウチの会社は合併・分社化が数度あったので、経理的にも大変でした。44歳の時に東京勤務となり、4人の子も小さかったので単身赴任にしましたが、九州工場への出張が多かったので、それを活用して月2回程度は船坂に帰ってきていました。合併した会社間の微妙な関係に相まみえながら頑張ってきたつもりです(笑)。

―船坂に対して何か想いはありますか?
寺)船坂の現在と今後について、いろいろ思っていることはあります。まずは自治会の仕事をしっかり努めたいと考えています。

(インタビュアー:中西 学)


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