今回は7班、蘆田勝也さんのご登場。船坂卓球大会で一度お相手いただいたことがあるのですが、実力の差を見せつけられ、心の中で”へへ~っ”と平伏しましたm(。_。;))mオソレイリマシタ
―蘆田さんは生まれも育ちも船坂ということで…
蘆)親父もおふくろも船坂出身やから親戚も船坂にいてるんで、悪いことできへんねん(笑)。生瀬保育園・船小・山中・県西高ときて、大阪の専門学校でてから家業(芦田建築)を継ぎました。通えるところばかりやったから、今にいたるまで一度も船坂以外で住んだことがないんです。
―小さい頃の思い出って何かありますか?
蘆)僕らの世代は結構人数が多かったんやけど、ある時、生瀬保育園から帰りのバスに乗り遅れた時があって…。その時に次のバス停までと考えたのか、いっそ船坂までと思ったのかはよく覚えてないんやけど、とにかく「バスを待たずに帰ろう」となって、保育園児だけでぞろぞろ歩いたんです。幸い、船坂の人にたまたまその姿を見つけてもらって無事に帰れたんやけど、ちょっとした騒ぎになったらしいです(苦笑)。
―今まで船坂に住んできて、一番苦労したことってなんですか。
蘆)交通の便が悪いってよく言われるけど、僕はずっと船坂やから不便とは別に感じてなくて、「これが当たり前」って感覚かなぁ。一番苦労したのは僕が27歳のころ、親父が亡くなった時かなぁ。その頃には大工仕事は身についてたんやけど、見積もり作成とか事務的な仕事は親父が全部やっていて、僕はいっさい関わってなかったんよ。せやから教えくれる人がいなくなったんで、残された書類だけを頼りに本当に真っ白な状態で一から作業することになりました。当時は結婚して長男がまだ1歳ぐらいやったし、消防団にも入ることになって本当に大変でした……。
―消防団・交通指導員等の地域活動はどんな状況ですか?
蘆)消防は2名減少したけど新入団がなくて困ってます。今、消防の屯所移転計画で設計中なんで、今年度末までに団員を増やしたいと思ってます。交通指導員はそもそもは地域住民のボランティア。西宮市と警察がおおもとで、船坂では2名いてます。主に船坂を含めた山口町内の秋まつりや、さくら祭り・たそがれコンサート・ほたるの夕べ等のイベント時に出動してます。
船坂には青年団がなく、地域のつき合いもごく狭い範囲の中でしかできない環境です。そのなかで交通指導員や消防団は船坂地域という広い範囲で交流ができます。活動が大変で時間もしばられそうだから加わるのに躊躇するかもしれないけど、船坂で一生暮らしていく、”終の住家”と決めてるような20~40歳台の若い人たちは、地域活動の中に入って交流を深めるほうが、船坂で長く生活していくんやったら、絶対に得やと思いますよ。
(インタビュアー:中西学)