今回は、7班の亥角洋子さんから話をお聞きしました。(仮称)船坂里山学校の管理当番では、持ち前の明るい笑顔で私なんかもよく声をかけていただいてます(*^_^*)
―亥角さんは船坂出身ですけど、当時の船坂小学校ってどんな学校だったんでしょう?
亥)確か今のプールのある所に幼稚園が併設されてましたよ。幼稚園の思い出は幼すぎてあまり残ってませんが、小学校の思い出はたくさんあります。当時は体育館も上の校舎もなくランチルームの棟だけで、それももう少し大きかったように思います。
―ランチルームだけでほとんどの学校生活が行われてたんですね。
亥)昔は学芸会と言ってましたが、そういう催しがある時は、教室の間仕切りの板戸を外して、木のイスを土台にしてその上に間仕切り板を敷いて、舞台にして使ってました。学芸会は学年ごとに芝居やダンスをするんですが、家で手作りしてもらった白い衣装を着て同級生と2人でダンスしたことをよく覚えてます。そんな催しがあると、自分の子供や孫が小学校に通ってる通っていないにかかわらず、船坂の人たちはみんな見に来て楽しんでました。小学校が生活にすごく密着してたんでしょうね。
―中学・高校はどんな学生生活を?
亥)山口中学までは徒歩でしたから、帰りの金仙寺までの登り道がしんどかったですねぇ(笑)。途中、金仙寺の前中さんところで休憩して、よく井戸水を飲ませてもらいました。高校は大阪の女学校だったので宝塚までバス、宝塚からは阪急電車で通学してました。遊びたい盛りで、当時土曜日は半日授業でしたから、家から着替えの私服を持って出て、学校が終わると友達の家で着替えさせてもらって梅田に行き、うたごえ喫茶の「こだま」で皆で歌ったり、喫茶店の「田園」でおしゃべりに花を咲かせていました。その頃が一番楽しい年頃でしたねぇ。でもバスの最終が早いので、夕方に「もう帰らな最終に間にあわへん」と言ったら、友達がみんな「まだ明るいのに何いうてんの?」みたいな不思議そうな顔をしてました。それからは皆に「山猿さん、はよ帰りよ」と言われてましたね(苦笑)。
―今も昔も、「船坂あるある」は変わりませんね(笑)。今はどんなお暮らしですか?
亥)子どももそれぞれ独立して、仕事も退職した後、体調を崩したりもしましたが、今は本当に自由に生活してます。趣味のトールペイント(ヨーロッパの伝統的装飾技法を土台にあらゆる素材に絵を描く)、ヨガ、グラウンドゴルフを楽しんだり、好きな旅行を老人クラブの集まりや友人と行ったりして老後を楽しんでます。働いてる間は地元と関われませんでしたが、今は管理当番や老人クラブなんかで、みんなと一緒にワイワイ出来るのがほんと楽しいです。でも一年一年老いていくので、健康で今の現状を維持していけたらいいんですけどね。1年でも長生きして孫の将来が見たいです(笑)。
(インタビュアー 中西 学)