インタビュー当日まで名前と顔が一致せず、インタビュー当日にお顔を拝見して「ああ、この方が●●さんかぁ」と初めて気づくことが多いんですが、今回ご登場いただく9班の与那嶺愛子さんは全くの初対面でした。「失礼のないようにしないと…」と、緊張を押し隠しつつのスタートです(;^_^
―ご出身はどちらですか?
与)四国は高知の窪川町というところで育ちました。山の方の田舎で船坂と同じような感じなので、船坂に初めて来たときもそんなに驚くことはなかったですよ(笑)。
―小さいころはどんなお子さんでしたか。
与)今もそうなんですけど、自分から何か行動していくというタイプでは全然ないですね。引っ込み思案だと思います。田舎なので川遊びはしてましたが、飛び込もうとする時に近くを走る電車が通りかかった時は、飛び込む姿を見られるのが恥ずかしくて、電車が通り過ぎるまで待ってたりしました。
―それは結構恥ずかしがり屋さんかも(笑)。ご結婚まで高知にお住まいで?
与)いえ。大阪で兄が働いていたので、兄を頼って私も大阪に出てきました。兄の勤め先で私もしばらく働いてましたが、ある時、新聞か雑誌で美容師の”山野愛子”さんの文字を見かけたんですよ。「私と同じ名前だ。美容師さんかぁ…」と。それで美容師さんもいいなぁと思いたって、阪神電車の打出駅近くの美容室に住み込みで働き始めました。最初は掃除洗濯から始まって、夜間の美容学校に通いながら仕事を覚え、10年ほどそこで勤めました。
―船坂の事はどこで知ったんですか?
与)先に美容室を辞めた仲間を通じて、当時宝塚に住んでいた主人とお付き合いすることになり昭和52年に結婚しましたが、その当時、主人の兄が船坂に住んでいたので、そこで船坂の事を初めて知りました。空いてる土地を紹介してもらって船坂に来たのが昭和55、56年頃だったと思います。
―船坂の暮らしぶりはいかがでしたか?
与)生まれが田舎でしたし、当時は阪急バスが下田付近のゴルフ場前まで来ていたので、特に不便は感じなかったです。こういうものだと思ってましたね。子どもも一人だったので買い物や病院に連れて行くのが大変じゃなかったのが良かったかもしれません。
―今はどういう風にして過ごされてますか?
与)船坂の一羊園で、正社員で10年ほど勤めていましたが、今はパートでお手伝いしています。あと、娘夫婦が上ヶ原に住んでますが、ひんぱんに呼ばれるのでそのたびに孫のお土産もって行ってますね(笑)。でも、今は下田にも阪急バスが来なくなったし、やまなみバスで西宮市街にでる気も実はあまり起こらないんですよ。趣味というものもないので、引っ込み思案な自分の性分にあった生活をこのまま続けていくのかなぁという気がしています(笑)。
(インタビュアー:中西 学)