今回は、坂本 茂さんにご登場願いました。お孫さんの実麻ちゃんも同席です(^_^)
―坂本さんはとてもお元気ですが、おいくつになられました?
坂)昭和18年生まれで69歳になった。中学の同窓生12人おったけど、今船坂におるのは3人や。
―坂本さんの中学時代の船坂って、どんな感じだったんですか?
坂)そやな、当時は、船坂信号から善照寺に入るとこまでの間、県道が無かったので、有馬行きの阪急バスが船坂信号を左折してワシの家の前を通り、JA前の一方通行を回って有馬へ走りよった。道が細かったんで、対向車が来たらどっちかが交わせる所までバックせんといかんかったので、よう渋滞しよった。祖父も親父も寒天屋しとったので寒天作りもみてたで。
―トランペットをされてたとか?
坂)中学の授業でトランペットを触らせてもらったんがきっかけで、トランペットが大好きになったんや。山口中にブラバン部がなかったので、日曜日毎にバスと電車に乗って2年間、今津中へ通ったんや。今津中の顧問は、有名な得津先生やった。そやからワシは、山口中ブラバンの1期生なんやで。
―そのトランペットを生かしてお仕事をされていたと聞きましたが・・・。
坂)世界長に勤めとったとき、山口中顧問の南先生に勧められて、オープンしたての「奈良ドリームランド」の音楽隊に入ったんや。毎日2~4 回、園内をパレードしたもんや。そら、音楽隊はもてたで。5 年間下宿したけど、ワシ長男やったんで、親父から「早よ帰って来い」としつこく言われ、しまいには「これで通え。お前のおもちゃは高こつくな。」とパブリカの新車買うて持ってこられたんや。1人息子の長男
として仕方ない思うて船坂へ戻った。
―それからはパブリカで通勤されたんですね?
坂)しばらく通勤した。そいで、日曜日毎に奈良へ車でデートに行ってた。それが今の嫁はんや。そんな時、義兄が「大工せえ、大工せえ」と言うんで、あまりやりたくなかつたけど、祖父も大工しとったんで仕方なくすることにしたんや。
―JAふれあい会館の「趣味の作品展」に立派な水車小屋や東京タワーを出展されてましたね。
坂)ワシ大工やったから、普通の材料でつくったら早よ出来てしまうので、金使わんと頭ボケんように割り箸やマッチ棒使ってわざと時間かけて造ったんや。図面なんか書かへん。頭の中で考えて造ってるんや。
―お孫さんが大勢おられるそうですね。
坂)そや。22 歳で結婚し、47 歳で初孫抱いたんや。子どもは2 人やけど、孫が8人できた。うちは、7代続いて男が1 人しか生まれへん家系やねん。祖父、父、ワシ、息子、孫どの代も男は長男一人だけや。
―これからの夢はなんですか?
坂)夢なんてあらへん。今は、畑作業と孫たちのアッシー君してるんや。時々、一方通行の交通整理で立ってることもあるけど。まあ、のんびり暮しとんねん。