今回は、船坂の中で最も北側の下田地域の山崎ウトさん(写真左から2人目)を訪問しました。娘の湊さん(右から2人目)と自治会9班隣保長の宮里清さん(右端)にも同席いただきました。
―こんにちは。山崎さんは何歳になられたんですか。
山)86歳や。29歳の時に鳥取へ嫁に行ったんやけど、ここには昭和38年(1963年)に来た。沖縄の人が住んどると聞いて見に来たけど、すぐ気に入って土地買うたんや。300坪はあったんで、しばらく養鶏場しとったこともあるんやで。
―その頃は下田に何件くらいあったんですか?
山)5軒やった。ここにおる宮里さんは、まだ子どもやった。
―宮里さんは、いつ頃来られたんですか。
宮)兵隊だっ父が、終戦後、沖縄は米軍に占領されてしもうて帰れんかったんで、縁あって船坂に来たようや。父が一番早く船坂に来たようや。ワシら子どもはみんな船坂で生まれ育ったんや。
―その当時、下田はどんな所だったんですか?
宮)この辺りは、寒天干し場やった。船坂川に沿うて寒天小屋が何件も並んでて、作った寒天をこの辺りで干してたんや。西側の道路から川を渡る時、擁壁をハシゴで降りて川に架けてある2本の丸太橋を渡ってたんや。5軒が共同で架けたので「5軒橋」と呼んでたんや。大雨が降ったら渡れんかった。
―今の橋はいつごろ出来たのですか?
宮)昭和42年に出来た。「5軒橋」と名付けてほしかったんやけど、勝手に「田尻橋」と付けられてしもうた。幅3mの橋やったけど、電電公社が鉄塔建てる時に4mに広げられたんや。丁度その42年に船坂と合併(船坂自治会加入)したんや。
―山崎さんは、お地蔵さんのお世話をしておられるようですね。
山)そうや。38年前に祀る人がおらんようになった石の地蔵さんが山に捨てられてたのを拾いに行って、今の場所に祀るようにしてから、ずっと守ってきたんや。大昔、旅僧に背負われてきた善照寺の仏さんが「寺まで遠いなあ」と言われたので「遠矢地蔵」というんや。徳風会から年間わずかやけどお金くれてはる。船坂の皆さんもちょこちょこぽ参りに来てはるで。毎年8月23日の午後3時から4時まで地蔵尊祭りしてるので、あんたらも来てや。
―この下田地区はまとまりがいいそうですね。
宮)今、28軒住んでて、毎年8月14日の夜には地域のみんなが集まって盆踊りをしている。最近集会所も作ったんや。中古のコンテナ3つ買うてきて、みんな寄って自力で内外装を仕上げたんや。25人くらい入れる集会所やで。
―最後に船坂について一言。
山)いいとこや! ものすごい幸せ! 長年の念願やったバスも通って、役員さんも親切やし、船坂はほんまにええとこや。
―今日はどうもありがとうございました。