船坂の寒天は、明治18年から細寒天として高級な品質を誇っていました。今回は、長年にわたって寒天作りをされていた西口昭三さんをお訪ねしました。
―こんにちは。西口さんはいつまでもお元気ですね。
昭)ワシは中東条で生まれたんやけど、9人兄弟の8人目や。8人目になったら親も面倒くそうて昭和3年生まれやから昭三と名付けよった。
―西口さんは長年寒天作りで働かれたそうですが。
昭)そやま。船坂へ来てから寒天小屋で30年ほど働いたで。
―寒天小屋は、どの辺りにあったんですか。
昭)昔、船坂川は今みたいに護岸が無うてな。川の両側は河原やったんや。そやな、寒天小屋は河原に10軒ちょっとあったで。道は旧道(船坂墓地前の細い道)しか無うてな、ワシは川をじゃぶじゃぶ渡ったもんや。橋は、船坂橋だけやったから、皆は船坂橋を渡ってから旧道を通ったもんや。
―なぜ船坂は、寒天作りが盛んだったんですか。
昭)船坂の冬は今も寒いけど、昔はごっつう寒かったんやで。そやから冬は畑は出けんかったんや。ワシが寒天に行きよるときの最高は―13℃やった。そら冷たかったで。信州辺りは凍ててまうんで角寒天しかでけんかったけど、船坂はそれよりマシやったから細寒天ができたんや。
昭)まず、三重県辺りから仕入れてきた天草にあくを、冬の初めに船坂川の水で洗い落すんや。そいでそれを釜で一昼夜炊くんや。ワシの頭位の高さのでっかい釜に甑(こしき)を乗せてドロドロになるまで炊くんやで。釜炊きの火加減が一番難しゅうて、頭梁の仕事やった。炊き上がったやつをフネの中で布袋で絞り出して一晩置くと固まりよる。固まったトコロテンをマンガ(格子の刃物)で切ってフネバコに入れて、それを担いで干し場へ行くんやけど、そら重かったで。50kgあったさかいな。干し場の責の所で筒に入れて、筒を引きながら矢で押し出して細くしたトコロテンを責の上にきれいに並べるんや。夜凍らして昼乾かして、10日間くらいでカラカラになった細寒天ができるんや。
―その寒天作りも無くなってしまいましたね。
そやな。最後の1軒が無うなって10年くらい経つかな。船坂の冬も温こうなってしもうたんで、今やったらええ寒天でけんやろな。今この辺で作っとるのは猪名川の奥で一軒だけや。
―ところで西口さんは山王神社のしめ縄も作られるそうですね。
あれはそ我流やで。小さい時、親がしとるのを見とったけど、売っとうやつ見て我流で作ったんや。そやけど今年は、ええかげん断っとんねん。後継者欲しいな。神社役員だけやったら続かん。保存会でも作って後継者を育てなあかん思うで。