今回の数珠つなぎは6班の島津光甫(みつとし)さんのご登場。数珠つなぎでは毎回、「船坂の人たちに伝えたいことありますか?」とお聞きするのですが、どうやら島津さんはたま~に誤解をうけることがあるようで…(゚∇゚ ;)エッ!?
島)「加登石材を経営してるんですか?」と思ってる人がいてはるんですよ。私はそんな偉い人じゃなくて一介のサラリーマンだったし、今は退職して寂しい年金暮らしの日々やのにねぇ(苦笑)。
-ご自宅が加登石材の2階になるので、そう思う人もいてはるんでしょうね。今日はそのあたりの疑問が解消するような話も聞かせていただくとして、まずは自己紹介から…。
島)年齢は72歳。当時の占領地だった韓国のソウルで生まれました。終戦後、実家の奈良の御所に引き上げてきたのがまだ3歳の時で、韓国での暮らしや引き上げ時の大変さとかの記憶は全くないんですよ(苦笑)。小学校は御所でしたが、中学・高校。大学は大阪市内だったんで、約10年も電車通学してました。
-学校が大阪市内だと、遊び盛りやからだいぶ遊ばれたんでは?
島)いやいや、いたって健全な学生でしたよ。でも遊びもしてはいましたなぁ(笑)。中山律子や須田開代子ら女子プロ選手が人気だったボーリングや、ビリヤードが流行ってましたね。大学に入ってからはそれに麻雀が加わったかな。
-仕事は最初から加登石材に就職されたんですか?
島)いや、最初は自動販売機の製造販売会社でした。当時「流通革命」とまで言われた自販機ですけど、まだ出始めのころだったんで、道路より会社の中に設置するのがほとんどでした。商品もドリンク類じゃなく煙草や牛乳系が多かったですね。その時分に結婚して石切神社近くに住みました。その後、不動産会社に転職しましたが、そこの先輩に紹介してもらうことがあって、加登石材で働くことになったんです。最初の勤務地は大阪の堺市でした。
-船坂に住むことになったきっかけは?
島)十八丁橋の白水峡公園墓地が昭和52年に開園し、加登石材が販売拠点営業所として選んだのが船坂だったんです。それで、ある日、会社が私を呼び出して「お前、ここで働け。通勤は大変やろうから店と一緒に家も建てたる。ほんで、そこで住んだらええ」と私に言うわけですわ(笑)。私はどこで働いてもよかったんですが、嫁さんがよく了解してくれました。子どもの小学入学と時期はあってましたが、それにしてもほんま感謝しています。
-今、何か趣味はお持ちですか?
島)ゴルフはずっとしてますね。山口町・JA・船坂の各ゴルフ会に入ってるし、仕事時代のゴルフ仲間とも行ってます。アベレージは…まぁいいじゃないですか(笑)。あと、クロスワードパズルは雑誌を買って毎日やってます。毎日新聞土曜日のパズルがなかなか強敵で、時間制限設けると、毎週勝ったり負けたりなんですわ(笑)。
(インタビュアー 中西 学)