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船坂住民数珠つなぎ 中田 隆さん

第080号関係 数珠つなぎ 画像加工

今回は、船坂自治会の会長に就任された6班の中田隆さんのご登場。堅いお話は”会長あいさつ”にお任せし、ここでは新会長の人となりなど、少しくだけたお話を披露いただきます(笑)。

―まずは自治会長就任、おめでとうございます。中田さんはお幾つですか?

中)ありがとうございます。年齢は65歳です。大変ですけどがんばります(笑)。

―中田さんはずっと船坂に住んでこられたんですか?

中)高校・大学時代はほとんど船坂にいませんでした。船小卒業後は報徳学園に入ったんですけど、高校でラグビー部に入ったもんやからバスの便があわなくて、神戸の親戚の家やクラブ仲間の家に泊まってました。家に帰るのは土曜日だけで、翌日も練習があるので船坂には本当に寝泊まりしてるだけ。大学も京都産業大学で遠かったので下宿してました。

―ラグビー強豪の京産大ですが、大学でもラグビー部に入られたんですか?

中)当時は京産大も出来て間もない頃だったんで、ラグビー部もまだ同好会でしたわ。大学でラグビーするつもりはなかったんやけど勧誘で”入ってくれ~”としつこく言われて、しゃあなしに入りました(苦笑)。ポジションはフロント・ローのフランカーで、ラグビー漬けの毎日。高校の同級生に頼んで天理大OBの人に監督で来てもらってから京産大のラグビーは強くなっていきましたわ。卒業後は一般企業に事務で就職したんやけど、暇な職場だったんで辞めてしばらくは就職浪人。実は船坂に住むつもりはなかったんで京都でバイトしてましたが、その時分に公務員を目指した結果、警察官になりました。

―警察官時代には船坂に住まれてたんですか?

中)そうですね。地域課、いわゆる交番勤務と交通課に主に配属されてました。勤務地も長田、宝塚、有馬、川西、篠山等さまざまな場所でしたね。警ら隊に配属してた時もあって、その時はおりしも千葉の成田空港建設反対運動が起きていたときやったから、千葉まで長期応援に出向いたこともありました。ヘルメットかぶってガス銃なんか持って、反対派から無数の石が投げられたり、混乱のなか隊からはぐれたり、あの時はいろいろ怖い目にあいましたわ。

-それは大変でしたねぇ。そんな仕事だと家や地域のことに関わる時間がないですよねぇ。

中)そうでしたね。田畑は父がやっていて、”お前にしてもらっても結局ワシがやり直さなあかんから手伝いすんな”と言われてましたけど(苦笑)。ここに嫁いできて家のことをいろいろしてくれた嫁さんにもほんま感謝してますわ。私が家や地域のことに関わりだしたのは57、8歳のころでまだまだ知らんことも多いから、皆さんにいろいろ教えてもらってちょっとは船坂の役にたてればええなぁと思ってます。

(インタビュアー:中西学)


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