12『船坂地域の井戸』
船坂地域の地下水は温泉や鉱泉の影響で鉱分を多く含んでいるので井戸水には不適当とされていました。
特に、山王神社を境として、東南側の地区では鉱分の含有量が多く、殆ど井戸はありません。その場合は山水が利用されました。山水とは、その字の通り山から涌きでるという意味で、川などから水路を通して用水として利用されました。
六甲山地側から山水を引いて飲料水としているこの地区では、フッ素イオンの含有量が多く斑状歯が多くみられました。
阪急バス停の舟坂東口近くに、“清水”と呼ばれる冷たい清らかな涌き水場があり生活用水として共同利用されていました。
太多田川を上ってきた旅人がこの地点で陸に上がります。一息入れる場所でした。弘法大師が法衣の袖を捲って手をすすいでいます。ねねさんが水を飲んでいます。そばで太閤秀吉がじっとみつめています。そんな歴史のロマンを想像させてくれる涌き水場です。しかし、阪神大地震後、殆ど水は涌かなくなりました。
逆に、神社の北側は理由は分かりませんが鉱泉の影響が少なく、各戸に井戸が掘られて飲料水として利用されています。
善照寺を過ぎて船坂川へ抜ける湯山古道の途中、字西垣内と呼ばれている一坪程の三角地に「新兵衛井戸」と呼ばれる井戸があります。昔、新兵衛という野夫が旅人ののどを潤すべく一夜で掘ったと伝えられています。薪兵衛は行基菩薩の化身ではないかと噂されました。夏、冬を通じて同じ水温で同じ水量を保っていました。
しかし、「新兵衛井戸」も水道の普及により忘れられ、下水道工事などの影響からか昭和五十年頃から水は涌かなくなり、現在は、ともすればゴミの置き場になる状況です。