1『茄子のたたりという話』
シンシンと雪の降る夜のことじゃった、一入の老へが表の戸を叩きました。
「有馬に行く途中でずがこの吹雪にあいました。一晩泊めて下さらんか」人のよいお百姓の弥太八は気軽に承知し中に入れ、いろりばたに招きました。
赤々と燃えるいろり端でドブ酒を飲みながら老人はこんな話しをしました。
「私は丹波の山村に住んでいました。田地は少なく、木を切ったり、炭を焼いたりして細々と生活をしていました。そこで、この地でよく育つ作物がないかと妻子と別れ、各地を尋ね歩くことにしました。国を出てから十九年目でしょうか、出羽の国へ来たとき、丹波より高地で、気候も不順なのに特産物の茄子をつくり、豊かな生活をしている村に行き着きました。寒い土地でも育つ茄子をつくりだしていたからです。私は自分の村が貧乏で困っていることを話し、弟子にしてもらいました。何年も何年も苦労し、改良に改良を重ねて作り上げられた茄子でした。どんな土地でも見事に育ち、収穫が多いうえに味もよく、まさに天下一品の茄子でした。各地から分けてくれと申し込んできますが、その種は村の外に持ち出さないきまりでした。しかし、私の熱意が通じたのか大事な種を数十粒頂きました。村へ持ち帰ろうとして、帰りを急ぐ途中なのです。明日は有馬温泉で旅の疲れをとって帰る予定です」と語り終えると老人は眠りこんでしまいました。
弥太八は老人の話しに胸を打たれましたが、この船坂も高地で田畑も少なく農作物がよく育たず生活は貧しい。
「この茄子を栽培すれば村は豊かになるだろう」と弥太八はいけないことだと思いながら、老人のふところから種の包みを取り出し、僅か数十粒しかないその半分を普通の種にすり替えました。
翌日、そんなことを知らない老人は深く感謝して出て行きました。
しばらくして、「村外れで、旅の老人が山賊に殺されたらしい。丹波の人らしい」という噂を弥太八は聞きました。驚いて駆け付けると、前の晩の老人が血まみれで倒れていました。取り縋ると老人は「大切な種を奪われた。残念じや。あの茄子を栽培する者にたたってやる。」と叫んで息を引き取りました。
弥太八は老人を手厚く葬りました。数年後、この種を栽培して「船坂の長茄子」と呼ばれる茄子の名産地になり、村人の暮らしも豊かになりました。
ところがこの頃から村人たちの歯が黒く染まりだしました。
いくら磨いても白くならず、歯が腐ったようになります。しまいにはボロボロになってしまう。弥太八だけがその原因を知っていました。あの老人の恨みのせいだと。
老人が死んでから十年目の命日に村人に集まってもらい、一部始終を話し、老人の供養を盛大にしてもらいました。その後、弥太八はその罪を詫び仏門に入るため村を去って行ったということです。
そして、村人たちも茄子の栽培を止めたといいます。
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【摂陽落穂集巻三】に〔長茄子の事。有馬郡船坂村にあり、茄子の形は胡瓜のごとく、長さ七、八寸もあり、色甚だ美しく、この一村に限る。其味ひ佳なる事、市岡茄子、小まつ茄子のおよぶ所にあらず〕と書かれています。摂陽落穂集は文化五年(一八〇八)に書かれていますから江戸時代の話しです。
六甲の山々に雨が降り、又山々から涌きでる水は多くの谷川となって四方に流れます。
表六甲の伏流水は六甲のミネラルと炭酸を含み海岸近くで適当の塩分とまざって灘の酒造に欠かせない宮水となります。しかし同じ六甲山系の地表近くの水の中にはフッ素イオンの多量に含まれている土地があり、これを飲料としている土地の人々の歯のホーロー質をおかして俗にいうなすび歯(斑状歯)の原因となります。この川水を直接使用していた船坂地区は特に大きな影響を受けました。なすび歯は乳歯には少なく永久歯に多くあらわれ特に九歳から十二歳の子供に著しく発生します。女性に被害が多く、若い娘が結婚してまもなく総入れ歯になったという話もあります。昭和二十三年京大の平田博士の調査により、フッ素含有量が限界値の二倍もあることが分かりました。昭和三十二年に市営水道が敷設され、その心配はなくなりました。しかし、昔の人々にとっては一つの不思議であり、“何かのたたり”と考えたのも自然の理かも知れません。