船坂住民数珠つなぎ 北福敬三さん

H25年31月号 北福敬三さん画像

今回は、船坂の人気者、「敬ちゃん」こと北福敬三さんにご登場いただきました。敬ちゃんと言えば野球、そして畳店。早速、野球の話から聞かせてもらいました。

―プロ野球球団から誘いがあったほど、すごいピッチャーだったんですね。

西宮東高校の時は、エースで4番でした。夏の県大会ではベスト16まで進みました。その大会で、1年先輩の市立神港のエース山口高志(阪急)さんと対戦したことがあって、8回打席に立ったけど、ボールがバットに当たったのはたった1球だけだった。球がホップアップしてくるので、「うわ~、こんな火の玉剛速球投手がいるんや!」とびっくりしました。その時まではプロを目指してたんだけど、それでガーンときてしまいました。

―卒業してノンプロに入ったんですね。

小西酒造(白雪)に入団しました。2年目からエースとして活躍できて、通算15勝くらいしたと思います。シーズン前の1ヶ月間は、朝8時半から夜8時半まで練習し、3時間ぶっ通しでバッティング投手したりランニングしたりして鍛えました。その頃に、大洋ホエールズ(横浜DeNA)から勧誘されましたが、山口高志みたいな投手がごろごろいるプロには行けないと言って断りました。しかしその後、練習しすぎたせいだと思うけど、残念ながら3年目に肩を壊してしまいました。

―それからは畳業を手伝いながら軟式野球で大活躍でしたね。

そうです。親父に教えられながら手縫いの畳を造りながら、時間を見つけては軟式野球をしに三田へ通いました。三田選抜チームのエースとして7~8年投げたと思います。県軟式大会では優勝戦まで2回も進出しましたが、あと一息で準優勝でした。でも、三田で野球していた10数年間は野球が楽しくて楽しくて仕方が無い時期でした。大好きなことをしている時が最高です。そのあと、船坂パセリーズに籍を移し、50代になっても投げ続けましたが、後半に膝が痛くなり投げられなくなったのが残念です。今も膝が痛くて走るのも走れなくなり、運動できないことに腹を立てています。

―酒を飲んだときの武勇伝も有名ですね。この間は、バスを降り損ねて流通からあるいて帰ったとか。あの時は市南部で飲んでて、最終のさくらやまなみバスで帰ったんですが、トンネル手前で寝てしまって目が覚めたら山口営業所でした。タクシーもないので、1時間ほどかかって歩いて帰りました(にが笑い)。他のことは一杯ありすぎて、あまり話したくないのでこらえてください。

―畳店は、創業80年とか・・・。

親父が昭和8年に始め、自分は2代目です。今年で丁度創業80年を迎えており、息子の和敬に3代目を継いで欲しいと思っています。店の自慢は、全国のイグサの8割を生産している熊本県八代市からイグサを大量に仕入れたものを使って畳を作っていることです。船坂の人にサービスさせてもらえるのも、そのせいです。畳替えの時は、気軽に声をかけてください。サービスさせてもらいます。

―最後に、船坂の将来について何か一言お願いします。
仕事があるので、できる範囲でボランティアやらしてもらっている。今は、善照寺総代と隣保長をしていて、4月からも続けて2年したら、寺総代も隣保長も延べ20年やることになります。船坂のこれからのことを考えると、若い人たちの新しい知恵でさらに元気な船坂にしていってほしいと思います。若い世代に期待したいですね。


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