船坂住民数珠つなぎ 野口照之さん

H24年11月号 野口照之さん画像

今月は、多方面にわたって船坂地域のために活躍された野口照之さんのご登場です。

―野口さんは、永年にわたり船坂地域のために様々な分野でご活躍されてきましたが、主にどんな役をされてきたんですか?

そやな、小学校PTA会長、初代みやっこ編集委員、自治会長、山口地域環境衛生協議会会長、市農業委員、七五会会長などいろんな役をこなしてきました。今も、七五会会長と老人クラブ会計をさせてもらっています。

―農協の職員として働きながらやっておられたんですね。

野)農協には、昭和32年に地区の人の勧めで勤め始めたんやけど、昭和39年に一担退職しました。というのも当時は船坂の野菜は最盛期で、農協の1ケ月の給料分を1日で売上げる時もありました。当時の野菜の出荷組合員は60戸あり、1日に大型トラックが2台も出る日もあって大阪中央卸売場の野菜売場は船坂野菜で賑わうほど船坂農業は活気がありました。

―野口さんの家は花作りをされていたとか?

野)うちの家は、父が昭和10年頃から始めたようです。当時船坂には花作り組合と野菜組合の二つの組合があり、花組合には7~8軒入っておられたと思います。私が中学生のときなんか、朝、自転車の運搬車に花を積んで有馬温泉駅まで行ってから山口中学校へ通ったもんです。花は神戸市場が主で大阪市場にも出荷してました。花も、野菜と同じように阪神間では数少ない産地でした。

―すごかったんですね。花や野菜の盛んな時期はいつごろまで続いたんですか?

野)私の家は昭和35年頃に野菜作りに転換しましたが、野菜は大阪万博(昭和45年)の頃が最盛期であったと思います。今は、船坂農業も衰退しましたが、なんとか今の農地を生かした農業の再生を今の若い人に期待したいですね。

―ところで、農協にお勤めのときに奥さんと結婚されたとか。

野)昔の農協は松本散髪屋跡の所にあったんですが、昭和37年に、善照寺に入る道までの間の県道を新しく造るため立ち退きになりました。それまでは、船坂小前の信号から南へぐるっと回って今の一方通行道を通っていました。その工事で農協が今の所に移転し、公会堂も昭和38年に旧農協建物の材料を再利用して今の場所に建ちました。その昭和37年に妻がアルバイトで農協に勤めに来て、縁あって昭和41年に結婚しました。あと3年で金婚式です。

̶―青年団や船坂音頭の復活にも尽力されたそうですね。

野)そうですね、それまで休んどった青年団を昭和32年に再建して、その時に船坂音頭も復活させました。残念ながら青年団は再び解散してしまったけど、音頭の方は続いているのでこれからもぜひ若い人達で続けてほしいと思っています。

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