船坂住民数珠つなぎ 迫水月男さん

 今回は1隣保の迫水月男さんのご登場。当日は船坂に初雪が降り、凍結が心配で電話をしたところ「大丈夫大丈夫。行きますよ~」とパワフルで闊達なご返事をいただきました。恐れ入りました(;^_^。

―失礼ですが、ご年齢は…?
迫)昭和11年生まれの84歳になります。生まれ育ちは鹿児島県出水郡長島町という、熊本県との県境付近の島になります。小さい時分は本当にワンパクでワンマンな子どもで、しょっちゅうケンカしてました(苦笑)。

―小学生の時はまだ戦時中だったんですか?
迫)そうです。小学校の裏が山だったので空襲警報のたびに山に避難したのを覚えています。中学校は島内の分校で、野球部に入りサードを守っていました。そこそこ強くて県大会まで進んだこともあるんですよ。

―その後は就職ですか?
迫)醤油の製造・配達をするところに勤めました。当時、機械いじりが好きで19歳でバタコ(オート三輪)の免許をとり、配達をするようになると、これが面白い。それで23歳の時に独立して、自分で農作物等を買い付け、欲しいところに商品を配達して販売する仕事をはじめたところ、これが上手く軌道に乗って24歳の時には家を建て、25歳で結婚しました。

―まさに「迫水商社」ですね(笑)。鹿児島を離れたのはいつ頃?
迫)26歳の時分です。私が鹿児島から出たことがなかったので、兄が関西に出稼ぎにでる時、遊びがてら一緒についていったんですよ。ところが遊びすぎて帰りの旅費まで使ってしまって帰れなくなった(苦笑)。そこで兄の勤め先に旅費稼ぎで少し働かせてもらったら、これがまた鹿児島の仕事より面白くて(笑)。それで、いったん鹿児島に戻った後、翌年には家族ともども関西に引っ越してきて西宮の株式会社松田組で土木業務の仕事につきました。

―すごい行動力ですね。船坂を知ったのはいつ頃ですか?
迫)31、2歳で独立して建設会社を立ち上げました。当時は宝塚に会社があったんですが、車の置き場所がなくなってしまって場所を探していたところ、縁あって船坂で土地が見つかりました。社員20名の宿舎も建てたんですが、夏が涼しく「クーラーを使わないので身体が疲れない」のが本当に良かったです。それに生活は不便だけど仕事上は市街地も高速道路も近く利便性が高いのが船坂の良いところですね。

―今はどんな生活をされていますか?
迫)実は79歳まで現役で働いていました。重機も動かしてましたよ(笑)。引退後は庭に池を作って錦鯉を育てたり、畑でいろいろ作ったり、自分のしたい事をして過ごしています。鹿児島にはもう知っている人がいないので、若い頃に建てた家も解体し船坂に最後まで暮らすことにしました。地域の人にはすごくお世話になったので本当に感謝しています。

(インタビュアー:中西 学)

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