今回は6班の坂田芳郎さんのご登場。インタビュアーのために略歴入りの覚書を事前に作成いただいたり、息もつかせぬマシンガントークが炸裂したり、坂田さんの行動力はやっぱりスゴいです(;^_^
―(覚書片手に)あれ? 坂田さん船坂生まれじゃないんですか?
坂)僕は芦屋生まれやねん。小学校3年生の時に疎開を兼ねて父の生家の船坂にきたんです。それまで通ってた小学校と比べると船坂小学校は本当に小さくて、当時そのことで悪口を言ってしもたんやけど、そのせいで同級生は今でもそのことを言いよります(苦笑)。
―戦時中で運動場が開墾されてた時代ですね。
坂)出征で若い人がいなくなった家の手伝いに行ったりもしてました。でも、それまで畑仕事したことがない子どもが行っても大したことが出来るはずもなく、逆に邪魔やったと思います。せやのに家の人はそんなぼくらにボタ餅をくれたりして、家の人のほうが本当によくしてくれてました。
―小学校卒業後は?
坂)中学・高校は三田。大阪市立大学に進んでからは、大学が遠いのでほとんど船坂に戻らず友達の下宿を泊まり歩いてました。当初は心斎橋に校舎があったので、大丸のエレベーターガールに皆でちょっかいだしにいったり、授業の代返を頼んで麻雀しに行ったりと、よう遊んでましたわ(笑)。
―遊び人だったんですね(笑)。ご結婚はいつ頃?
坂)昭和37年頃やったかな。妻は高槻出身でお見合い結婚でした。その時は鉄鋼商社の営業で大阪で働いてたけど、結婚を機に船坂をでて、それからは名古屋・東京・福岡などに転勤して働いてました。僕は年末年始しか船坂に帰らへんかったけど、娘2人は夏・冬休みに2人だけで毎年船坂に帰ってました。出発の空港や駅までぼくらが連れていき、到着は船坂の父母が迎えにいってね。その頃の船坂は僕より娘のほうがよう知ってるかもわかりません(笑)。
―船坂に戻ってきたのは?
坂)退職して61歳の時に夫婦だけ戻 ってきたんやけど、早々に自治会・善照寺・農会の役についたり山口公民館推進委員を務めたりしました。畑仕事なんて小さいころに手伝ったぐらいで何十年もしてないから「出来へん」と言うたんやけどね(苦笑)。でも、そのお陰で地元にすぐにとけ込むことが出来たんは確かです。
―坂田さんと言えば「歴史好き」ということが、すぐ頭に浮かびます。
坂)古代史により興味を持ち始めたのは船坂に戻ってきてから。日本人やのに日本のことを何も知らないと常々思ってた時、妻から「日本美の再発見」という市民講座があるよと聞いて受講したのがはじまりです。古墳・神社仏閣・史書等を学ぶうち、同じように地元のことを何も知らないという思いが「山口町史」の編纂や船坂の歴史・伝承調べ等に結びついてます。先人たちの足跡を継承発展させるために、里山学校の「舟坂展示室」も引き継がれていってほしいと思ってます。
(インタビュアー:中西 学)