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ちょっと気になるこの人 野口品子さんと平井と志子さん

ちょっと気になるこの人 野口品子さん&平井と志子さん01

今月は、船坂生まれの船坂育ちの野口品子さんと平井と志子さんをお訪ねしました。

―おはようございます。お二人は同級生だそうですね。

はい、そうです。昭和6年に船坂小学校へ一緒に入学しました。小櫻節雄さんも同級生です。

―その頃の船坂小学校の子どもは何人くらいだったんですか。

全校生は約90人で全員地元の子です。私らの学年は15人でした。校門(現校門東側の石段3段)を入ると、右手に高学年校舎(現ランチルーム。後年今の場所へ曳き家)、左手に低学年・幼稚園の校舎があり、高学年校舎の東が運動場でした。校舎と校舎の間に全校生が集まれる広い板敷きの広場がありました。

―ずっと船坂で過ごされたんですか。

野)私は女学校の時、神戸の住吉から通いました。

平)私は船坂の青年学校で3年間和裁を習いました。おかげで和裁で内職ができるようになりました。

―青春時代は戦争中だったんでしょう?

野)昭和19年に船坂小学校の教師として赴任してきて、畑好きの好調のもとで運動場にいも畑を作りました。船坂小には6年居ましたが、戦時中は勉強そっちのけでしたね。

平)終戦前2年間、川西航空の軍需工場へ駆り出されました。爆弾が落ちてきて沢山の人が亡くなるのを体験しました。兄が戦死したため、嫁いでいきたかったけど行けんようになってしまいました。

―苦労されたんでしょうね。

野)私は、教師してたんで勤務面は苦労しましたが、平井さんはすごく苦労されたと思いますよ。

平)そら、えらい苦労でした。夫は外へ勤めに行ってたんで、私が朝5時から畑に出てホウレン草、三つ葉、パセリ、ラレッシュ…と、ぎょうさんの野菜を作りました。75歳まで畑をしました。

―その頃、バスは走ってたんですか?

下からのバスが小学校前を左折し、出荷場前手前を右折し農協前を通って有馬へ向かって走ってました。バスに乗るときは、バス停に赤い旗を立てました。今の公会堂前の道路はだいぶん後に出来た道です。バスのおかげで、船坂は昔から宝塚の影響を強く受け、文化的には結構進んでたんです。

―これからの船坂に望むことはどんなことですか。

農家の跡継ぎが本当にいなくなるのが心配です。大昔の船坂の人達が農地を開拓された苦労を、今の私たちは忘れてたらいけない。これからは、都会の人達にもっと畑をしに来てもらったり、いろんなことを通じて都会の人達と交流を深めることも真剣に考えないといけないと思います。


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