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Vol.2 寒天屋の職人さん

2.寒天屋の職人さん (文:宮本 守)

冬季が近付けば、船坂の寒天屋は急に忙しくなっていきます。丹波地方より多くの職人さんがやって来て、賑やかに丹波の方言が飛び交います。

親方さんはエー 今年もよろしくお願いしマッシャー

仕事はきついけどネーエ、寒天づくりは好きダッシャー

職人さんたちは急に情熱を込めて取り組んでいきます。

寒天工場の生産能力は、釜数で表されます。「西宮市の地場産業」の資料によれば、昭和初期の全盛期における船坂の釜数は、全工場で60釜に及んでいます。釜1基の作業には男子の職人が4人当たりますので、船坂川流域全体では、240名もの男子の職人さんが寒天の製造に携わっていたことになります。ちなみに我が家では、4釜を据えていました。

寒天屋の職人さんは棟梁が支配する従弟制で、主に丹波氷上地方(現丹波市)からの出稼ぎ労働者でした。

職人の構成は、棟梁-釜脇-上人-かいこし、他にさらし職人がいます。「棟梁」は総責任者で、天草の煮沸の責任をもち、「釜脇」は寒天の干場の責任者、「かいこし」は下働きものでした。

寒天づくりの仕事は朝が早く、また冬場の寒い中での仕事で、大変つらい仕事であったと思います。昔の寒天づくりの作業唄には、遠く家族と別れて働く職人さんたちの心情がよく現われていると思います。

<寒天づくりの作業唄>

こころ丹波で身は船坂で

落ちる涙は草の上 (草:天草)

はるか故郷を思いやる職人さんの姿が、目に浮かびます。

寒天製造は、釜はじめで始まり釜じまいで終わります。釜はじめは、煮沸用の釜を釜屋に据え付ける作業で、釜じまいは、釜の手入れをして収納する作業です。釜はじめと釜じまいの日には、寒天づくりの成果と感謝を祈り、ご馳走を作って、お酒を飲んで、賑やかにお祝いをします。


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