今回は十隣保にお住いの永井勝さんのご登場。”いつかは順番が回ってくるんだろうから…”と、悟り(あきらめ?)の境地でインタビューに応じていただきました(;^^。皆さんのご協力があってこの数珠つなぎが続いていることを改めて痛感。今後ともよろしくお願いいたします<(_ _)>
―船坂に引っ越してこられたのはいつ頃ですか?
永)昭和55年の6月ですから、住み始めて40年一歩手前というところです。生まれは日本酒「白鹿」の酒蔵に近い、西宮市の浜町です。浜脇小学校から関学の中・高・大と進み、西宮市職員になって勤めあげたので、もう西宮市一色の人生ですね(笑)。
―学生時分はどんなことをして過ごされてましたか?
永)小さいころは、海が近いので魚釣りしたり、西宮戎も近かったので神社の森で虫取りしたり、街中でしたが自然の中の遊びがほとんどでしたね。中学で9人制バレーボール部に入りましたが、少人数で動くほうが性に合ったので、高校では友人たちと山登りと昆虫採集を楽しんでました。大学時代は夏のバイトで資金を貯めて、冬に2~3週間ほどのスキー旅行に出かけていました。釣りは今でも趣味で楽しんでるし、登山や昆虫採集は熱中していた時期があったし、船坂に来たのも自然の多いところで暮らしたかったのが理由ですから、学生時代の体験は自分の中でかなり根付いているのかもしれません。今は畑仕事や園芸の毎日で、飼い猫と一緒に日々を過ごしています(笑)。
―西宮市職員になった時期は?
永)昭和42年です。事務職で最初は市民会館の管理運営の部署につきました。当時は歌番組が盛んで、公開録画の会場で市民会館を利用することがテレビ局側で流行っていたのか、市民会館が本当によく使われていました。多くの芸能人を見てきましたし、なぜか送迎までする羽目になったこともあります(苦笑)。阪神淡路大震災が起きた時は清掃部局にいたんですが、この時はご遺体や瓦礫撤去の対応に追われ、睡眠時間以外は全て仕事に費やしていた状況でよく身体がもったなと思います。
―山口支所(現山口町センター)長もされていたとか?
永)山口支所長を6年間務めていました。当時、西宮市内の南北交通の未整備が長年の課題として残っており、また、老朽化等による支所建替え計画が阪神淡路大震災で立ち消えになっていた時期でした。この2つの問題を何とか解決すべく山口町の自治会等の各種団体にお声をかけ、多大なご協力をいただき、これらの問題を両方とも実現にこぎつけることができたことはとても感慨深いです。“実り多き6年間”といったところでしょうか(笑)。
(インタビュアー:中西 学)