約10年前、船小の図書ボランティア”たんぽぽ”で活動されていた2班の寺元なる子さんにお話をうかがいました。久々にお会いしましたが当時から全く変わってなくてビックリですw(゚o゚)w オオー!
―噂では船坂以上の田舎のご出身だとか?
寺)まぁ失礼な(苦笑)。でもバスの便は船坂より不便かもしれんね。三田市と猪名川町にはさまれた宝塚市の北部、西谷で生まれ育ちました。小さい頃、実家の風呂はまだ五右衛門風呂でしたからね。井戸の水を汲んでよくお風呂の準備をしてました。今はさずがに五右衛門風呂じゃなくなりましたが、井戸はまだ実家で現役で頑張ってますよ。
―西谷にはいつまで暮らされてたんですか?
寺)高校卒業後、宝塚にあったヤクルト工場に事務職で就職しました。その時はさすがにバス通勤が不便でしばらく寮に入ってましたが、仕事に慣れてからはまた西谷に帰って通勤してましたね。
-ご主人と結婚して船坂にこられたのはいつ頃?
寺)私の母方のいとこのお嫁さんが、主人のお姉さんだった関係で、ある時「一度、弟と会うてみいひん?」と言われました。それで主人とお見合いをした結果、結婚して船坂に来ることになりました。一生の伴侶をすっごく近場で探したんです(笑)。船坂にきたのは32年前ですが、その年は船坂でも結婚ラッシュだったようで、主人の弟、5班の山崎さん、2班の宮本さんも同時期に結婚されたはずです。宮本さんとはたまたま婚礼の荷入れの日まで一緒で、宮本さんが荷入れが来たと思って迎えにでたら、そのまま通り過ぎていってしまったのでビックリしたらしいですよ(笑)。
―ごく近所で荷入れの日が一緒だったなんてすごい偶然ですね。船坂にきてからの生活は?
寺)子どもができるまでヤクルトに勤務してたんでバス通勤してましたが、昔、採石場の土砂崩れでバスが不通になった時、私は免許を持ってなかったんで、主人の車で一緒に出勤して夙川で降ろしてもらいそこから宝塚に通勤したり、帰りは山口方面のバスに乗って途中下車して主人に迎えにきてもらったり、7班の蘆田さんの車に乗せてもらったりしてました。子どもが4人いたので、病院行くのにバスではやっぱり辛くて、船坂では車の運転は必要だと痛感しましたね。
―船坂生活で免許は絶対、と皆さんおっしゃいますね。これからの生活で考えてることは?
寺)今、名来で服などに大きなアイロンみたいな機械でプリントする地味な仕事をしてますけど、性格的にあっていて楽しいので続けていきたいかな。ただ、勤務時期が不定期なんで迷惑かけてしまうから地元と関わらなくなったのが申し訳ないところです。あと、主人が単身赴任で15年ほど東京に行きっぱなしなんですが、定年後は帰ってくるので2人で何かすることを見つけたいですね。そうしないと息がつまってしまうかも(笑)。
(インタビュアー 中西 学)