今回は発足された当初から船坂里山学校の管理当番をされている9班の前原清美さんのご登場。学校では何度もお見かけしてますが、お話したことはほとんどなく、管理当番になった理由をお聞きして、地域の情報共有を目的にしてる新聞もガンバラないと…と思わず身が引き締まりました(-_-)ウーム
-船坂に来られたのはいつ頃ですか?
前)24歳で船坂に嫁入りで来たので、昭和50年ですね。まだ開発前だった名塩で生まれたので船坂の地名は知ってましたが、まさか自分が暮らすことになるとは想像もしてませんでした。
-子ども時代はどんなことをされてましたか?
前)名塩小・塩瀬中と進み、神戸市にある高校に進みました。小中時代からなぜか働くことが好きで、新聞配達や昔名塩にあった八百屋でお手伝いをしてました。その影響もあって高校も商業科に進んだんです。高校の最寄り駅は三宮駅で特にクラブ活動もしてなかったので、放課後はよく友達と食べ歩きして遊んでました(笑)。高校卒業後は塚口にある三菱電機で商品検査や事務職をしてました。
-船坂で暮らし始めた時の印象は?
前)嫁いできた時、義父母と主人に加えて主人の弟と妹も同居していたり、義父と主人との建材業の仕事以外に義母がパセリを作って市場に卸していたので一度もしたことがないパセリの束ね作業をすることになったり、結婚までに聞いてたかもしれないけど記憶にはなく、嫁いで初めて知ったことがたくさん出てきて、とても大変でした(苦笑)。あと、名塩はバスの便がひんぱんだったけど船坂はほとんどなくて、病院の関係はとても不便でした。慌てて自動車学校に通って免許をとりましたが、当時は盤滝トンネルもなく、ペーパードライバーの身であの曲がりくねった旧道を走るのは本当に怖かったです。
-今もお勤めをされているとか?
前)4人の子どもが少し大きくなった平成2年に、名来にあった回転ずしに勤めました。今は職場が三田に移りましたけどずっと勤めています。1日4~5時間で週4,5日ぐらいですかね。自営の前原工業の経理も任されてるし、発足当初から学校の管理当番もしています。
-それはスゴイですね。今の仕事だけでもお忙しいのに、どうして管理当番もされることにしたんですか?
前)地理的な面から下田(9班エリア)は山口町からも離れているし、船坂からも近いとは言えません。だから下田は独自の盆踊りと秋祭りがあるんでしょうが、裏を返せば下田だけポツンと浮いた状態になってると思いますし、実際、船坂の人・出来事・行事も正直、私はよく知っているとは言えないんです。それで、この状態を何とか解消したいと思って管理当番に入りました。少しずつですけど、船坂の人のことも出来事も判るようになってきてるので、これからも頑張っていきたいですね。
(インタビュアー:中西 学)