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船坂住民数珠つなぎ 坂本定夫さん(船坂:昔の風景)

 今回は5隣保の坂本定夫さんのご登場。昔の船坂を良く知る定夫さんということで、昔の船坂の暮らしぶりや産業について3回に分けて掲載します。ただ、聞き手が船坂を良く判っていないので、ちゃんと書けているかどうか…。正しくお伝え出来ていない箇所は全部インタビュアーのせいですのであらかじめご了承ください(;^_^。

―定夫さんは今、おいくつですか?
坂)昭和6年生まれの88歳。昭和21年までは小・中学校の六・三制でなく、船坂小学校は船坂国民学校、山口中学は山口国民学校高等科の名称でしたわ。

―当時の船坂の風景はどんなもんでしたか?
坂)今の船坂小学校前交差点から山王神社までの県道は昭和38年頃に出来たんやけんど、それまでは全部田畑でした。せやから公会堂は今の場所やなかったし、逆にJA(当時は農協)は山王神社の下にありました。

―交通事情はどんな様子でしたか?
坂)宝塚から有馬に向かう路線バスは、戦前は阪神合同バスが、昭和22年頃からは阪急バスが、本数は少ないが通っていましたな。蓬莱峡から登ってきたバスは交差点を左折して、三叉路を右に入って4隣保内の道(現JA船坂前の道)を通って有馬に行っとりました。有馬温泉の観光バスもその道を使ってたけんど4隣保内の道が狭いから、バスが鉢合わせした時どっちも道を譲らずようケンカしとりました。昭和30年代はそれが面白くてケンカになるとよく見物に行ってました(笑)。
昔はセブンイレブンから山口に向かう県道もありません。村道は今も残ってる城山の山すそ道ですが、山口の学校への近道は2隣保内の道から川に出て、木の板や飛び石を渡って墓の所にでてました。当然のこっちゃけど道はアスファルトやなくて全部が土道。通学生徒は戦時中でモノがない事もあり、家で編んだ藁の草履をはいとりましたけんど、三日もすれば破けてダメになってましたわ。雨の日は下駄でしたな。

―子どもの頃はどんな遊びをしてましたか?
坂)クワガタやセミ取り、魚釣りかな。夏は池でよう泳いでました。せやけどカバンや脱いだ服を池のそばに置いとくと「堤が崩れるやろ!」とおっちゃんらが怒って服を放ってしまうもんやから、みんな服は木の枝にかけるようになった(苦笑)。冬は今よりも寒かったんで池も凍ってから、そこを滑って遊んだりしてましたな。
4隣保内のバス通りを私らは”銀座通り”って呼んでたけど、夏や秋の祭りの時は、その銀座通りに提灯があがって賑やかでした。盆踊りの場所は今のJA駐車場の所で、私らの頃は夜の12時頃まで踊ってたなぁ。祭りの時は小学校の先生が生徒全員を引率して学校からお参りしてました。夏祭りは桃が神社で配られてそれをもらうのが楽しみでした。テキ屋さんも数件の夜店をだしてましたわ。夜店におもちゃのピストルがあって”ええなぁ。欲しいなぁ”とずっと思ってたのを覚えてます。 ※次号に続く

(インタビュアー:中西 学)


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