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Vol.5 コイツカの話

5『コイツカの話』

千三百年程前に行基菩薩が有馬温泉に行かれる途中、船坂まで来たところ旅の疲れで 倒れそうになり、食べ物を所望されたところ、村人は鯉を料理して差し出しました。鯉を食べて元気になった行基菩薩はおおいに喜ばれ、鯉の骨を埋め、塚を建てて供養された。よって村人はその塚を鯉(コイ)塚(ツカ)と呼ぶ。
この伝説の根拠は「古今著聞集」に行基菩薩が有馬に行こうとして武庫山中までくると道端に全身から膿みがでて病み疲れている乞食が寝ていた。情け深い行基菩薩はすぐにかけより介抱をしました。この乞食は薬師如来の化身で、行基に難題を持ち掛けるのでした。生魚を食べたいと言ったので行基は神崎の浜迄行って買い求め料理して食べさせました。次ぎにからだ全体からふき出ている膿みを吸い取ってくれという。行基は嫌がらずに口で吸い取ってやりました。すると、乞食の体から光りが放たれ、薬師如来の尊いお姿になりました。行基はその尊像を刻み、堂(後の温泉寺)を建て安置しました。神亀元年(七二四)と伝えます。
この物語りでは行基が生魚を与えたことになっているのに、船坂の鯉塚の由来では行基自身が鯉を食べたことになっています。これは古今著聞集の物語がどこかで誤って伝えられたのではないかと考えられます。

異説があります。それは鯉塚ではなく、恋塚であるという意見です。
昔、村を訪れた身分のある都人に求婚され、しかも来世を約束した村の娘が、その約束を果たさずに都に帰って行った男の姿をこの山頂から求め続け、男の名を呼び続けて狂い死んだ。村人は哀れに思い、その所に塚を建てて供養をしてやったというのです。
善照寺の境内の隅に古るぼけた石塚と五輪塔があります。供養塔として建てられたものではないでしょうか。
善照寺を含む旧船坂小学校の裏山一帯の地番は今も北山コイツカと呼ばれています。


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