Vol.9 琴鳴山

9『琴鳴山』

生瀬を過ぎ、国道176号線を湯山街道から船坂方面へ左折してすぐ太田多川の右側の山を琴鳴山と呼んでいます。
平安時代の昔、左大臣万里小路盛通の子息で通麿という若者が浅茅という京の妓女と相思の仲となりました。しかし、身分が違いますので許されるべくもなく、二人は手に手をとって有馬の地に逃げて来ました。浅茅の歌と琴に、通麿の笙を合わせて湯治の客から生活の糧を稼いでおりました。二人の間には、可愛い赤ちゃんも生まれ、貧しいながらも楽しい日々を暮らしていました。
しかし、それもつかの間、ふとしたことから通麿は病の床につき、まもなく最愛の妻子を残して亡くなりました。浅茅の悲嘆は大変なものでした。 幼い乳飲み子を抱いて涙の日々を送っていましたが、やがて気を取り直し、京に帰って立派な男に育てようと決心しました。

そして有馬を後に船坂を過ぎて山を下ってきました。
生瀬近くの山中に来た時、突然抱いていた赤児が火のつくように泣き出しました。乳を含ませましたが、今までの心労のため乳がでません。すでに弱っていた小さな子供の命は保ちこたえることができず死んでしまいました。
浅茅は重ねての不幸に気も狂い泣き崩れてしまいました。この山中では慰めてくれる人もありません。しばらくして、気を取り戻しましたがもはや生きていく望みもなくなり死を覚悟しました。背中に負うていた琴を前に置き、京の方に向かい亡くなった夫と愛児のため、又今死んでいくわが身を弔うため静かに生者必滅の曲を奏なでました。
無限の悲しみをこめた琴の音は谷から谷へと鳴り響きました。奏なで終えた浅茅は自分で自分の命を断ち切ったのでした。
それからのことです。この山の下を通ると美しい、悲しい琴の音が聞こえるようになりました。時には乳を求めて泣く赤児の声も聞こえました。
以来、村人はこの山を琴鳴山と、谷を赤子谷と呼ぶようになったと伝えます。

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