Vol.11 船坂川(七合川)

11『船坂川(七合川)』

西宮市の最北端に連なる六甲山最高峰の東に雨乞いが行われていたといい伝えられている場所に、通称「石の宝殿」があります。
その北側の斜面を水源として船坂川は、地獄谷に落ち、屏風の滝・川上の滝を流れ落ちて、自然信仰の大石の前を通って、船坂地域を西北に流れています。
明治十七年四月に有馬郡長宛に提出された「船阪村地誌」には、〔船坂村字大ぶくらヨリ起リ、字田ノ尻山二至リ下山口村二入ル、長千九百五拾間、最深壱尺、最浅五寸、最広二十五聞、最狭十聞、急流ニシテ清水ナリ、舟筏不通〕と記されています。
更に、沿革の項には、〔貞享四年(一六八七)七月二八日、三〇日、八月二十六日洪水、九月九日大風雨洪水、元禄三年(一六九〇)洪水、家屋九戸流出、船坂川初テ出来云々ト古書二見ユ〕とありますので、度重なる洪水により船坂川が形成されていったと思われます。
その後も、明治三十五年八月、四十四年八月に洪水、昭和十三年七月五日の大水害では、船坂橋は流出し、民家も二戸流され、田畑が浸水する氾濫により大損害をもたらしました。
川は船坂から約三キロ程下って丸山南麓にぶつかって右折していました。

しかし西宮北部の水がめとして、昭和五十二年に川を堰き止め、丸山と対岸の畑山の間に丸山ダム(金仙寺湖)が建設されました。
こうした環境の変化に遭いながらも、川は再び自然の流れにかえり、国道一七六号線、中国自動車道を潜り抜け、鎌倉峡の景勝を保ちつつ神戸市の北部、道場辺りで武庫川に合流しています。船坂の西を流れる船坂川は「西の川」とも呼ばれ、下田・中の垣内など船坂西北部の田畑の灌漑用水として利用されています。慣行水利として十六の井堰があると山口町史には記されています。
又、衆知の寒天作りには清水が不可欠であり、原料の天草を洗い塩分を取る用水として利用されました。
同時に、水洗いする撹拌機の動力として水車が設置されました。最盛期には、十五の工場、五十九の釜がありました。
しかし、度重なる氾濫に備えて砂防工事が行われ、コンクリート壁の川となり、アカモトやサワガニをつかまえたり、石で水を堰きとめて水遊びをした子供たちの川床での風情は見られなくなっています。
それでも、一時減っていた船坂川のホタルも、近年は6月中~下旬にかけて、川面の暗闇に飛ぶ蛍が増え、幽玄な涼風を楽しませてくれています。

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