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2 船坂の交通

船坂の県道は、現在、東西方向に県道51号線(有馬~宝塚)が通り、南北方向に県道82号線(西宮~山口町)が通っている。そして、人々は昔から、東西方向に有馬~宝塚を有馬街道を歩き、南北方向に西宮~三田を船坂間道を歩いて往来しており、それらが近代になって県道として整備されたもので、船坂は、昔から東西・南北の幹線道路が交わる要所であったと言える。(船坂新聞)

(1) 船坂は古代から有馬への入湯路
「有馬温泉は、西暦600年頃、蘇我馬子の指示により幡多郷(現神戸市北区八多町周辺)の秦氏に よって開発されたようである。631年の舒天皇行幸のとき、日本書紀の記述にはないが当時の大臣: 蘇我蝦夷が案内したのではなかろうか」(「兵庫県謎解き散歩」米田 寿 著)
七世紀の初め、中大兄皇子は藤原鎌足とはかり蘇我氏を亡ぼし、孝徳天皇大化2年(646年)に発 せられた改新の詔により大化の改新が行われた。
大化3年(647年)10月、孝徳天皇が左右大臣群郷大夫とともに有馬温泉に行幸したと日本書紀にあり、公智神社(山口町)に行宮を造営し滞在した。その際も船坂を経由したであろう。
「この頃、船坂は有馬温泉への道筋になっていた。当時は、大和難波から有馬へ行く場合、海路・ 陸路とも西宮の津門を経て武庫川の西岸~蔵人~伊孑志を通り、生瀬から太多田川の渓谷~船坂~金仙寺~有馬と通っていたようで、さらにこの道は山陰方面まで続いていたようである」(山口村誌より)

(2) 江戸時代の船坂の街道筋
「摂津国絵図(慶長10年(1605年)年9月)によって、その頃の山口を中心とした交通の模様を図に示すと第9図のとおりで、生瀬村から船坂~金仙寺~山口に通ずる道は二重になっていて、しかも一里塚と思われ る印がある。江戸時代の初め頃までは、物資の移動がそ れほどでなく、人の往来が主であったころはこの街道が 往還であった。」(山口村誌より)
「一里塚とは、幕府が街道整 備の際、一里(約4km)ごとに設けた目印で、道路の両 側5間(約 10m)四方に土を盛りあげた塚をつくり、榎、松などを植え、里程がわかるように、また旅人の憩いの場にしたと言われている。船坂の一里塚は坂口家の敷地 内に設けられていたといわれている。」(山口町史より)
「この街道(生瀬街道)は、その後時代の経過とともに、三田方面と阪神方面の物資の交流が活発になるにしたがって利用度は減退し、名塩道、青野道の利用が多くなってきた」(西宮市史第2巻より)
「元和・寛永の頃(1620年頃)、徳川氏は有馬道を往還と定めており、慶安3年(1650年)頃以降の資料は、生瀬~船坂~有馬を有馬道と記している。」 (山口村誌より)

(3) 江戸時代の船坂間道
「船坂から鷲林寺に出て西宮へ通じている間道で、文政元年(1818年)船坂村がこの道筋を七、八 丁にわたり、道幅を2間幅に広げたのを生瀬駅側が見つけ訴えた。その結果、船坂村と西宮との領境、 そのほか1ヶ所に木戸を設けて村人だけの通路とした。このような駅所の特権を持つ宿駅側と、それを 打破しようとする在郷側との対立は治初年まで続いている。」(山口村誌より)
「江戸末期に旅篭だったと言い伝えられている家が今も船坂に現存する」(船坂新聞第18号)

(4) 明治時代の船坂の街道
「生瀬~船坂~有馬に通ずる道を俗に生瀬街道といっていた。治20(1887)~21(188 8年)年に改修されて県道に移管された。その後、明治31年5月に生瀬駅に阪鶴鉄道(現福知山線)が開通して、ますます主要な街道となり、人力車・籠などが使われ、船坂は旅人たちの休憩所宿所とされた。大正4年に三田~有馬間に鉄道が開通するようになってからは、自然にこの街道の利用者も少なくなった。」(山口村誌より)

(5) 阪急バスの開通
「大正13年(1924年)9月から宝塚~山口間のバスが営業開始し、翌年9月に有馬まで延長され たが、太多田橋~船坂~有馬のバスは、昭和14年(1938年)に開通した。」(山口村誌)

(6) 県道:大沢-西宮線と西宮北有料道路
昭和47年、船坂から盤滝を峠越えで結ぶ二車線完全舗装道路が開通した。
平成3年3月25日 西宮北有料道路(盤滝トンネル)が開通した。


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