今回は、船坂加工グループをメインにご活躍の8班、古藪優子さんがご登場。活躍の原動力を船坂新聞は果たして上手く聞き出せたのしょうか……o(;-_-;)oドキドキ
―古藪さんのところも寒天作りをされていたとか?
古)雄作おじさんがまだ寒天づくりをしていたとき、うちのお義父さんお義母さんは夏場はパセリやほうれん草を作り、冬場に寒天の仕事をしていましたね。工場で出来た寒天をいったん家の倉庫に集めて、ここから配送していたそうです。私が嫁いでくる前は、丹波からくる寒天職人さんの冬場の宿泊所になっていたので、食事等のお世話がとても大変だったと聞きました。
―優子さんのご出身は? それとご主人とのなれそめは…
古)ナイショです。ご想像にお任せします(笑)。生まれ育ちはJR兵庫駅近くで、幼児教育を学んでいた短大生の頃に北区に転居、卒業後は北区方面の幼稚園に勤務しました。結婚後、仕事をつづけながら花山に1年少し暮らしていましたが、2人目の子どもが生まれる前に、船坂で住むことになりました。
―船坂の印象はどうでしたか?
古)実は有馬より先のことは全然知らなくて、船坂のことも知りませんでした(苦笑)。それまで街中に住んでましたが、幼稚園では子どもに自然と触れさせることをしていたので抵抗はなかったです。むしろ花摘み・虫取り・自分で育てた野菜の丸かじりなど、身近な自然のなかだからこそ出来る子育てがしてこれたのは本当に良かったですし、自分も自然が好きなんだなぁと改めて感じました。毛虫はどうしてもダメでしたけど(笑)。
―船坂に住んでも仕事は続けられてたんですか?
古)船坂ではそれが大変でした。当時は始発のバスでも仕事に間に合わないので主人に有馬温泉まで送ってもらい、行き帰りの電車の中で保育日誌等の事務仕事をして日中は授業、帰りは買い出しの荷物を下げてバスで帰ってくるという忙しい毎日でした。でも娘4人の子育てではさすがに限界で退職。その後、子どもの病院通いのこともあり車の免許をとりました。皆さんおっしゃってますが車の免許は船坂生活のうえで必須条件ですよね(笑)。
―地元との関わりはその頃からですか?
古)最初は婦人会や船小のPTA活動ですね。今は子どもたちも社会人になり、自分のやりたい事ができるようにもなりました。その時、以前に船坂を考える会が行った黒豆の味噌作りに参加したのを思い出して「こういうことが継続的にできたらいいなぁ」と思ったんです。そこからは食が好き・船坂だからできること・手作りの良さ・作ったものを捨てるのはもったいない・昔からしてきたことを教わりながらみんなで行動等々、いろんな想いが重なって船坂の加工グループ活動にいたりました。食べるのが大好きな仲間も出来ましたしね。ひょっとすると、そもそもは自分の親が常々口にしていた「子どもには贅沢なことはさせられないけど、しっかり食べさせてあげて丈夫な身体をつくってあげたい」という言葉が私のなかにしみこんでいたからかもしれません(笑)。
(インタビュアー 中西 学)