船坂住民数珠つなぎ 坂本定夫さん(船坂:昔の暮らし)


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 今回も5隣保の坂本定夫さんのご登場で、主に昔の船坂の暮らしぶりのお話。正しくお伝え出来ていない箇所は全部インタビュアーのせいですのでご了承ください<(_ _)>。

―当時の船坂の暮らしってどんな感じでした?
坂)当時の船坂は学校だけでなく、散髪屋・呉服屋・魚屋・豆腐屋もあったし行商も来てたんで、住めば都で今よりも便利なほどでした。ほとんどの家は茅葺きやったけど、明治になってから軒だけ瓦にしたり、瓦屋根の家が建ってきたと聞いてます。
昭和のはじめに電気が通ったけど、使えるのは夜だけで昼間はまだ通ってなかった。せやから太平洋戦争が始まって、空襲時に警報サイレンを鳴らすようになったけど、電気がないからサイレンを鳴らす警報機は手動式で、山王神社まで行って手で回さなあかんかった。そのせいか風向きによってはサイレンが全然聞こえへん(苦笑)。それでサイレンを大音量にするために、また、太平洋戦争で勝っていったという戦果を戦意高揚のラジオ放送で広めるために、昼も電気が通るようになったと思います。

―船坂は疎開地と聞いてましたが、空襲があったんですか?
坂)激しい空襲は昭和19年から20年8月まででした。山口は児童の集団疎開を受け入れてましたが、船坂は縁故疎開でしたな。
大がかりな空襲警報は記憶にないけど、機銃掃射は何べんかあったから警戒警報のサイレンは鳴ってました。家のイモガマを防空壕に使ったり、(高射砲の)不発弾も2か所落ちました。三ヶ平(下田と金仙寺の間の山側)に零戦の飛行兵が落下傘で降りてきたり、生瀬の国鉄のトンネルのそばにアメリカのグラマン機が落ちましたな。

―自治会等の地域団体の様子は?
坂)昔は山口村と言わず舟坂村として独立してました。明治17年に山口村舟坂になったと聞いてます。戦後から自治会が出来るまでは「山口町船坂区」と言ってたから、自治会と言わずに”区会”と言ってました。今の1~8隣保の範囲で区割りする時に”1区10軒”と決めてしもたもんやから、隣同士やのに違う隣保になってしまうところも出来ました。「船坂自治会」になったのは昭和33,34年頃やったと思います。
「七五会」は、舟坂村の縁故財産を管理する「舟坂農業実行組合」という名称でしたが、昭和30年代に西宮高原ゴルフ場に山を売却、入ったお金を分配した時の権利者が七十五軒だったので「七五会」という名称に変わったんです。
農会や消防団も区会の時からありました。消防団は警防団という名称の時もあったし、農会は戦時中に米の供出があって農会長は大変やったと思う。逆に無くなったのが青年団で、昔は25歳までの男女は青年団に入ってました。今の公会堂が出来る前、公会堂の裏手側に狭い集会所があって、私らはそこを「倶楽部」と呼んでました。全部の団体がその倶楽部を使ってた。えらい狭かったけんど、みんなよう集まっていましたわ。一杯飲まなあかんしね(笑)。

―まさに船坂の社交場だったんですね(笑)。 ※次号に続く

(インタビュアー:中西 学)

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