今回は1隣保の上中道子さんからお話をお聞きしました。本当にお元気で、たくさんのお話しを必死で書き留めていたので、あっという間に時間が過ぎた印象です(^_^)。
―お生まれはどちらですか?
上)宝塚の中山観音の近くです。小学生時代は観音さんの所でよく遊んだものです。ちょっとだけヤンチャでよく笑う子どもでしたが、病弱だったので父に勧められて中学校でバレーボールをはじめました。高校も含めて6年間バレーを続け、めきめきと身体が丈夫になりました。
―高校卒業後は?
上)大阪の北浜にある証券会社に就職、受渡課に配属され証券等を持って証券取引所に毎日通っていましたが、一人で持ち運んでいたので今思うと物騒ですよね(苦笑)。とにかく男社会の中で頑張っていました。お昼には中之島公園でドッジボールやキャッチボールをしたり恋もしたり、楽しく充実した毎日でした。
―お仕事はいつまで?
上)結婚を機に退職しました。父は観音竹を扱っていて、それで私の結婚資金を蓄えようとしていたんですが、ある時、泥棒が入りその観音竹を全部盗んでいってしまって…。結局、資金は父がギャンブルで勝って都合がついたんですけど、あの時は本当にどうなることかと地獄を味わいました(苦笑)。
―船坂のことはご存じでしたか?
上)いえ、全く知らなかったです。中山も当時は田舎でしたが、船坂はもっと自然が豊かで、水路の水は透んでいてメダカやザリガニが普通にいたし、ある時、庭に目をやると見たことのない綺麗な鳥が来て庭木にとまっていたときはとても驚きました。後になって生活の不便さに気づきましたけど(笑)。
―船坂の暮らしはどうでしたか?
上)父は先見の明があったのか「これからは女性も運転できないとダメだ。早く運転免許を取れ」と言われて、高校卒業と同時に取得したのがその後の生活にとても役立ちました。ただ、最初は買物や送り迎えじゃなく、農作物の運搬だったんですけどね(笑)。農作業はしたことがないので、農具の名前すら全く判らない状態でよく叱られました。
―結婚後はずっと専業主婦ですか?
上)いえ、子供が高校に行くまではミシンの内職をしていて、その後は有馬の炭酸せんべいの製造でパート勤務していました。でも、製造なのになぜか販売・営業にも結構かりだされていましたね。おしゃべりだからその方が向いていると見抜かれたのかもしれません(笑)。
通算30年ぐらい働いて今はもう引退していますが、忙しいときは今でも声がかかります。「身体が元気なうちは、人の役に立つならまぁいいか」と思って頑張っています。家にいる時は毎日2時間ほど数独など頭の体操をしたり、歩いたり、テレビを見たりして時間を区切って暮らしています。私もそろそろゆっくりした余生を過ごしたいなぁ…と思う今日この頃です(苦笑)。
(インタビュアー:中西 学)