船坂住民数珠つなぎ 坂本定夫さん(船坂:昔の産業)


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今回で5隣保の坂本定夫さんのお話も最終回。昔の船坂の産業についてお聞きしました。正しくお伝え出来ていない箇所は全部インタビュアーのせいですのでご了承ください<(_ _)

―昔の船坂の産業ってどんなものがあったんですか?
坂)有名なんは寒天です。昔の船坂は寒かったけど雪が少なかった。寒天は乾燥も大事やから船坂の気候がそれに合ってたんやと思う。職人さんが外から何人も来てたし、船坂の女性は冬は寒天に関わってる人が多かったな。ほかに林業してた家もあったし、カーネーションや菊の花畑をしてたところもあった。畑の土手に植わってるお茶を自家用で飲むだけでなく有馬に売りに行ってたところもありましたな。あと、名塩の紙すきが有名やけんど山口でも紙すきをしていて、その材料になるイモを船坂でも作ってたらしいです。

―当時の農業事情ってどんなもんですか?
坂)生瀬に電車(国鉄)が通ったのが明治30年頃で、その頃の大阪の市場は天満やったらしいけど、そこにほうれん草とか持って行ってた記録はあるようや。大阪の市場が天満から福島に移ったのが昭和6年。その時の船坂出荷組合は今の消防団駐車場あたりにあって、最初は藁ぶきの建物やったが昭和9年には新築が建てられた。そこでパセリ・ほうれん草・ひらまめ・レタスなんかを何件かが集まって福島に出荷したり、別の何件かが西宮や有馬に出荷したりしてましたが、昭和15年頃から物価統制令がおきて食糧増産が必要になり、畑では麦・大根・イモばかり作ってました。私は戦争が終わって昭和22年にパセリ作りを再開しました

―船坂はパセリが有名でしたが、なぜパセリだったんでしょうか?
坂)パセリは単価もいいし、何しろ軽いのが良かった。問屋から言われて昭和24年に私らが青味大根を作ったことがあったけんど、出荷するのに5,6本じゃ話にならへん。そうすると重くて運ぶのにえらい苦労するんや。そやから何十人前の量でも軽くて運びやすいパセリが人気あったんやと思う。

―平木の水路については坂本さんが詳しいと聞いたことがあります。
坂)そもそも田畑の水は、その水を使う水利権の問題があります。平木の水は、いろこがた(※場所の名前)の貯水池からきてるけど、その池の堤を修理したり田畑への水路の整備工事を昭和37、38年頃に西宮市が発注し、受注した業者から船坂農会が下請けて私らが整備したんです。その図面は私は持ってないけど、当時の農会長やった人の家にあるかもしれん。口では説明できんけど、平木に行ったら「ここをこう通ってる」とか判ると思うんやけどなぁ。

―最後に、今の船坂に何か思うことはありますか?
坂)船坂はほんまに人が少なくなった。今は9、10隣保があるからまだええかもしれんけど、若い人なんて特に少なくなってしもうた。もっと船坂に住む人が増えるよう、今船坂に住んでる若い人たちに何とかがんばってほしいなぁと思ってます。

(インタビュアー:中西 学)

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